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「J・J・エイブラムス」という天才を称賛したい

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天才を通り越して、映画界の至宝だと考えている@Sanyontamaです。

J・J・エイブラムスという男がいる。
映画やテレビで活躍し、様々なヒット作を手掛けた映像作家だ。話題の「スターウォーズ/フォースの覚醒」の監督脚本製作を手掛けている。
製作、脚本、監督のみならず作曲までこなせてしまう天才だ。
ロマンスからSFまで、相容れなさそうなジャンルを手掛けてしまうあたり、この男の頭はどうなっているのだろうかと気になるわけだ。

スターウォーズ/フォースの覚醒に関する記述があるのでネタバレに注意してほしい。

J・J・エイブラムスという男を意識したのはクローバーフィールドが最初だ。
劇場で予告を見た瞬間に電撃が走ったのを覚えている。自由の女神の頭部が吹っ飛んでくるという衝撃でしかない描写に硬直した。これは観に行かなければならないと、その瞬間に決めていた。どの作品にその予告が付いていたのすら思い出せないほどだ。本編の存在をかき消してしまうほどに、クローバーフィールドの衝撃が大きかった。

J.J.はクローバーフィールドで製作を担当している。徹底した秘密主義で制作が行われた。物語も怪獣から逃げる一般市民が撮影したビデオカメラという設定で進行し、謎が明確になることはなかった。
この作品で、J.J.という男は謎を与えるだけ与えて観客の興味を煽り高揚させることを得意としているのだと実感した。

謎を与えて興味を煽るプロモーションにより、クローバーフィールドは成功した。2500万ドルと言う製作費に対して全世界1億7000万ドルを超えるヒットを記録したのだ。
本編では謎が何一つ解決していない。それなのに、謎が謎を呼ぶプロモーションだけで観客を劇場に向かわせて利益を上げてしまった。その手腕はビジネスマンとして天才的と言える。この男はただ者じゃないと記憶した瞬間だった。

J.J.はスタートレックのリブートを監督した。新スタートレックの映画「ネメシス/S.T.X」は興行的に失敗して続編も立ち消えになったらしい。
スタートレックのリブートが製作決定になった際、ファンはどのような気持ちだったのか。不安があったのか、それとも期待か。当時のファンに渦巻く感情を推し量ることは出来ない。
だけど、J.J.が監督をしたスタートレックをみてどう感じたのだろうか。恐らく立ち上がって叫びたくなるほどだったはずだ。

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スタートレックシリーズは見たことがないし、そもそもスタートレックをほとんど知らない。名前しか知らない状態だった当時の自分でもめまいがするほどに楽しめた。殴りこんでくるような怒涛の展開に目が離せなかった。
スタートレックというビッグシリーズを見事なまでに再起動させ、それでいてファン向けの二次創作にもなっていないという完璧な仕上がり。この男はやはりただ者ではないとの確信に重みが増した。
続編のイントゥ・ダークネスも見事な出来栄えで拍手を送りたくなる完璧さ。気づいたらJ.J.という男の虜になっていた。この男が作る映画にハズレはないんだな。そう考えてしまい、もはや神のように崇めていた。

そしてこの男がスターウォーズを監督すると聞いたときは硬直した。
あのスターウォーズをJ.J.が監督する?
その事実に歓喜と言うよりも不安が大きかった。
私はスターウォーザーではない。スターウォーズを見たことがあるが内容をほとんど覚えていないし、思い入れもない。なんとなく知っているとい程度だった。
だが、スターウォーズの偉大さは理解している。これはアメリカどころか映画を代表するシリーズだ。
映画コンテンツビジネスの嚆矢とも言われている作品であり、今なお世界中に多くのファンを抱えている現代の神話だ。
その神話の続編を製作するとなれば一大事件である。
様々な監督が名前に上がり、そして消えていった。みなスターウォーズという神話の重圧に耐えられないからと拒否したらしい。
それなのにJ.J.は監督することを受け入れた。彼はスターウォーズファンのようだ。ついに来たか、と感情が高ぶっていたのかもしれない。だが一度は監督を拒否したという報道が流れたため、彼の葛藤が見て取れる。

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実際に作るのと見るのでは立場が違う。
ファンだから、俺はこの作品を深く知っているから、と単純な理由で制作していけば、ファンが喜ぶだけの二次創作にしかならない。実際にそうなった作品は古今東西にありふれている。
J.J.が監督を拒否した際は「観客でいたい」との理由だった。大好きだからこそ、作りたくない。世界を汚したくないという気持ちがあったのだろう。そこには「自分が作れば独りよがりのスターウォーズになってしまうかもしれない」との悩みがあったのかもしれない。だからこそ、一人の観客としてスターウォーズを見続けていたいと考えていたのだろう。世界を汚したくない気持ちが強かったのだ。
しかし、J.J.は監督を承諾した。どういう経緯があったのかは分からないけれど、これは大きな決断というよりも、ある意味死にに行くようなものだろう。
神話の続きを構築しなければならないのだ。これを失敗させてしまうと彼は映画界から追放にも似た扱いを受けるだろうし、面汚しとして永久に名を残してしまう。
それほどの重圧が存在する、一大シリーズだ。それなのに、承諾したのだから彼の神経は相当図太いのかもしれない。
そして、彼はフォースの覚醒を完成させた。


事前情報は予告編以外にほとんど公開されていない。クローバーフィールドを思い起こさせる秘密主義だ。またしても、観客の期待を煽りに煽るJ.J.節がさく裂した。そんな持ち味を生かしまくるJ.J.はスターウォーズをどのような作品に仕上げているのだろうかと気になって仕方がない。

そして、フォースの覚醒を公開日に鑑賞した。
何度も言うがスターウォーズに思い入れはないし、シリーズも漠然とした認識しか存在していない。見たことがあるのはEP3と4ぐらい火山でアナキンがダークサイドに堕ちた場面しか記憶にない初心者だ。
世界が盛り上がる祭りだからと勢いで鑑賞してみたが、どういうことなのだろうか。
不思議なことに「なつかしさ」を感じさせた。なぜだろう、私はこの人たちを昔から知っている身近な存在に思えてしまった。ああ、帰ってきたのだなと、ハン・ソロやレイアの姿を見て謎の安心感に襲われたほどだ。
フォースの覚醒は「あ、これスターウォーズだ」と初心者の私でもすぐに理解させるほどに、スターウォーズの形になっていた。完璧なほどに、見事なまでのスターウォーズがそこに存在した。

シリーズを見ていなくても理解できた。楽しめた。一本の映画として完全なる完成がなされていた。
物語が進んでいくにつれて画面から目が離せなくなり、遂にはEP8が待てない体になっていた。
ファン向けの二次創作でもない、そしてファンの独りよがりでもない完璧なまでの再起動。
我々が見たかった「スターウォーズ」をしっかりと提示してくれていたし、同時に「俺がやりたかったスターウォーズ」も見せてくれた。その「俺的スターウォーズ」も世界観を壊すこともなくスターウォーズの世界へ違和感なく組み込まれていた。

J・J・エイブラムスはスターウォーズを完全なる形で再起動させてしまった。
誰もが避けてきた神話を、この男は進めてしまったのだ。
ファンへのサービスと言う過去へ揺り戻すこともなく、そして独りよがりにもならない、確かなる歩み。
この男は本当に天才なのだとため息が出るほどだ。やってくれ、見事にやってくれた。

シリーズ未体験でもスターウォーズの世界へと引きずりこんでくれる。その魅惑の触手に私は完全に絡みつかれて離れることが出来なかった。
「なんてことだ、今までこんな壮大な神話を見てこなかったなんて、大ばか者だ」と自分の愚かさを嘆く始末。
でも、これでよかったのかもしれない。私はソロやレイアの立場ではなく、レイとフィンの立場で物語を追うことが出来るのだ。

これまでの作品を見てきた元来のファンが何を感じたのかを私は体験できる。何も知らないレイとフィンは私の写し鏡だった。だからこそ、この立場でスターウォーズの世界を体験できた私は様々な意味で幸福だと思える。シリーズ未体験者と同じ目線で物語を追えるキャラを配置し、そして元来ファンには齢を重ねたソロやレイアを配置することで観客のシンクロ率を上昇させる。どの観客でもキャラクターに感情移入できる作りになっている隙のなさ。あまりにも出来すぎているのだ。それほどの完璧さを誇っているがフォースの覚醒である。

フォースの覚醒で私の内にある何かが覚醒した。この神話を見届けようと決意できた。
過去に何があったのか、そして未来に何が起きるのか、フィンとレイと共にこれから私は見ていくのだ。

「フォースの覚醒」とはJ.J.の決断によりシリーズが再び歩み始めたという意味もあるだろう。そして、新たなファンを生みフォースを受け継がせるという意味も含んでいるのだ。

誰もが楽しめる。誰もが心を奪われる。そんな歩みをJ・J・エイブラムスはやってのけた。
この天才は、本当に天才だった。

アカデミー賞はJ・J・エイブラムスに監督賞、BB-8に助演ユニット賞を与えるべきだろう。



クソリプを送ってくる人の実生活が知りたい

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クソリプを見ると上のような気持になる@Sanyontamaです。

Twitterという人間動物園では様々なクソリプが飛び交っている。
突然会話に割り込んでくる人間は珍しくない。適当につぶやいた事柄に対しても突っ込みを入れてくる人はいる。

別に会話に割り込んでくるのは構わない。興味がありそうな内容であれば積極的に混ざりこんでくる姿勢は嫌いじゃないし、それもTwitterのだいご味だと思っている。
誤った知識を訂正してくれるのもありがたい。
これぐらいだった大歓迎なのだ。でも全員がまともなリプを飛ばしてくるとは限らない。

クソリプというのが存在する。個人の感想や会話に割り込んできて、意味不明な文章を投げ飛ばしてくる奴らがいるのだ。

クソリプの例を挙げてみる。
「ショベルカーってかっこいいよね」とつぶやいたとする。
「建設業界にショベルカーと呼ばれる機械は存在しません」「油圧ショベルだろ?馬鹿か?」「行政用語ではバックホウな」
とのリプが帰ってくる。これがクソリプだ。

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言いたいことはわかる。ショベルカーは存在しないし、工事現場ではユンボやバックホウの名で呼ばれている。リプライの全ては正しいことを言っているのだけど「ショベルカーかっこいい」というつぶやきに宛てるものではない。
見ず知らずの人間がいきなり意味不明な事を言ってくるのだから「なんだお前は?」となるのも仕方がない。何を言っているんだと、怒りよりも疑問の気持ちが大きくなってしまう。

「名称云々の話ではないですよ。大丈夫ですか?」と返答したくなること間違いなしだ。そんなことをしたらなぜか喧嘩に発展するのだから、クソリプ飛ばす奴らは日本語が通用しないのかと思えてしまう。
そもそもクソリプを飛ばしてくる奴は日本語だけを使ってくるとは限りません。Twitterには全世界の人がいて英語も中国語も使われてますよ? はい、これもクソリプ。

クソリプを投げ飛ばしてくる人は論点が違うというのを気づいていないのだろうか。
本題はただの感想だ。ショベルカーかっこいいという個人の感想。そこに「わかるよ」「えーあれのどこがいいんだよ」とリプを送るのなら理解できる。かっこいいという論点に沿っているし、つぶやいた人もそんな反応を望んでいるからだ。正式名称なんかは最初から求めていないのである。
だけど自己の知識を顕示するかのように行政用語を送り付けてくる奴には辟易する。なぜ論点が異なるリプを飛ばせるのか理解できない。

クソリプを貰った人は多いと思われる。
フォロワーが多ければRTされる確率も増えるだろう。そうすると餌を見つけたハイエナみたいに飛びついてくる奴が出てくる。
ちなみにハイエナは腐肉をあさる動物ではなく、集団で狩りをします。ライオンのほうが世間一般でいうハイエナ的行動を行っています。はい、これもクソリプね。

と、意味不明なつぶやきを行う人と気軽に触れ合えるのがTwitterのだいご味だ。
クソリプしてくる人は何が悪いのかを理解していない。さもしてやったりという顔をしているか、大真面目に「それ間違ってます!!」と目を血走らせているのか。
悪気が一切なさそうな点がクソリプをクソリプたらしめている点だろう。

クソリプを飛ばしてくる人はクソリプを飛ばしているという自覚がないのだと考えている。「ショベルカーかっこいい」という文面で、何を思ったのか思考の飛 躍を起こしてしまい「行政用語はバックホウ」に行きついてしまう。本当にそんな人がいるのだからTwitterは地獄だ。
ネットの世界なら顔も名前も知らない不特定多数の人と遭遇する。現実のその人を知らないからこそ、ずかずかと土足で足を踏み入れてわけのわからない事を喚くことも出来てしまうのだ。
自分の目線と相手の目線が同じだと自然と思い込んでしまうからこそ、クソリプが生まれるのかもしれない。現実の姿を知らないからこそ成しえる技なのだろう。

でも現実だと話は変わる。
初対面でも「一目見た」だけで、その人となりは漠然ながらだが読み取れてしまう。初対面だからこそ相手の気分を害さない様にこちらも取り繕うのが自然の流れだろう。
でもクソリプを送ってくる人は初対面だろうがお構いなしにずかずかと相手の心に上がり込んでいるのだろうか。
仮にそんな人がいたら社会生活なんかままならないだろう。現実でクソリプを飛ばしたら、疎外されることは確実だ。

だからこそ気になってしまうのだ。
クソリプを飛ばしてくる人は、実生活でもクソリプを飛ばしまくっているのだろうか。

「佐川が宅急便届けに来たよ」と家族に言われ「は?宅急便はクロネコヤマトの登録商標なんだが?宅配便って言えよ」と突っ込んでいるのだろうか。
街中で見ず知らずの人が会話をしていて「昨日家族と映画観に行ってさー」と聞いたら「お前は家族がいない人の気持ち考えたことあんのか?」と割り込んだりしているのだろうか。

気になって夜も眠れない。
クソリプ送ってくる人って、実生活でもクソリプ飛ばしまくってるのかなと。
中には本当にそんな人もいるだろうが、自分の周りでは見当たらない。クソリプのせいで社会から疎外されてしまって、僕の目に入ってこないだけなのかもしれない。
そんな人がこじらせてしまい、元来持っていたクソリプパワーを悪化させてTwitterとかでクソリプを飛ばしまくっているのかもしれない。

クソリプを飛ばす人の実生活って、本当にどうなっているのだろ。
実生活での評判はいいのに、ネットの世界ではクソリプを飛ばしまくっているとしたら、それはそれで闇という物だ。
やっぱりこの世って地獄ですわ。

シン・ゴジラが抱える初代ゴジラの呪い

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呪いのすさまじさに震えている@Sanyontamaです。

待ちに待った日がやってきた。謎に満ちた「シン・ゴジラ」がベールを脱いだ。


エヴァンゲリオンで知名度のある庵野秀明氏が総監督と脚本を務め、日本沈没、進撃の巨人を手掛けた樋口真嗣氏が監督と特撮怪獣を兼任する。

2014年にハリウッド版が公開され、そのゴジラらしさに往年のファンは感涙した。2016年は本家本元の日本が再びゴジラを世に放つ。ファイナルウォーズから11年を経て、国産ゴジラが遂にベールを脱いだ。

シン・ゴジラ、略称はシンゴジになるのだろうか。今回のゴジラは目が小さく、どこか奇形のような不安と恐怖を与えるデザインになっている。
戦後間もなく製作された初代ゴジラのリアリティに対して、311を経験した現代だからこそ成しえた原点回帰のデザインだと、イメージデザインを手がけた前田真宏氏は語っている。

庵野ゴジラ、ほえる!『シン・ゴジラ』特報&ビジュアル公開! - シネマトゥデイ


原点回帰。シン・ゴジラは初代を意識した作品だという事が明らかになった。確かに世界の日本社会の雰囲気も1954年と似ているのかもしれない。だが、その初代的雰囲気が面倒くさい。既に頭を抱えるしかない状況に陥っている。

初代の呪い


1954年に第一作が製作され、2004年にファイナルウォーズで一旦幕を閉じた。
初代ゴジラは明らかに核や戦争という物を意識して製作されていた。徐々に戦争の記憶が薄れていく日本人に対して警鐘の意味合いが込められていたと思える。
初めてのゴジラは、確実に戦争という物を体現した存在のはずだ。八岐大蛇が洪水の化身(様々な説はあるが)として描かれたように、ゴジラは核の化身として、現代の神ともいえる存在として生まれた。

だが、その後は戦争の重苦しさが消え去っていった。ヒーローのような存在へと徐々に変貌していく。シェーをするゴジラが出現し、いつしか凶悪怪獣から地球を守るスーパーヒーローになった。

1984年にゴジラがリブートされる。これは初代的な重々しさを残した作品に仕上がっていた。だが続編である89年のビオランテ以降は、再びヒーローのような存在へと移ってゆく。
ゴジラという存在がある種のアイドル的立ち位置を得て、年末の風物詩となったのが平成シリーズだ。

ゴジラ2000ミレニアムから開始されたミレニアムシリーズは、作品ごとに世界観がリセットされ、ゴジラの描き方も作品によって異なっている。完全なる悪としてのゴジラもいれば、善にも悪にも捉えられないゴジラもいた。

ゴジラは作品によって描き方が異なっている。
ヒーローであれば悪でもあり、悲劇的な存在でもある。つまり「これがゴジラ」という定義は存在していないのだ。

核に絡んだ出自を持っていればゴジラなのだろうか。
現代日本は311を経験して、核という物について考えさせられている。そんな日本にゴジラが再び出現するのは、必然的なのかもしれない。
311と初代と言うキーワードから察するに、核問題などが絡められた重苦しい作品になることは間違いないだろう。

人によってゴジラ像が異なる。
ゴジラに核や戦争と言ったメッセージを求める原理主義者も存在している。一方でゴジラにそんなものは必要ないと一蹴する人もいるわけだ。

ゴジラというジャンルは世代間の軋轢が凄まじい。時代がゴジラを変貌させていったから、自身の中にあるゴジラ像という物が固定化されてしまっている。
初代原理主義もいれば、チャンピオン祭り原理主義、平成原理主義、迫害されるミレニアム肯定者。その闇はあまりにも深い。
そんな軋轢の存在するジャンルにやってきたのが、陰鬱さを印象付けるシン・ゴジラだ。

初代原理主義からすると核問題が内包されているであろうシン・ゴジラには期待しかしていないだろうし、チャンピオン祭りや平成原理主義からしてみると、ゴジラの活躍が見られればいいだけだからこそ、陰鬱とした内容に不安を抱いているかもしれない。
平成シリーズなんかは怪獣の脅威や恐怖よりも、怪獣のかっこよさ、つまりはアイドル性をとことんまで描いている。だからこそヒットしたし、それ故にこの世代で育った人々はゴジラにかっこよさを求める傾向にあるだろう。
そんな人からしてみると、シン・ゴジラの不気味なヴィジュアルは「これゴジラじゃない」との結論へ至らしめるには十分過ぎる。
何度も言うが人によってゴジラの定義は全く異なっているのだ。

この面倒くささも、完全に初代ゴジラの呪いだ。
初代ゴジラというゴジラを完成させた作品を神格化してしまうのは無理もない。
シン・ゴジラの原点回帰を見て、やっとゴジラが戻ってきたと安堵する人もいれば、こんなのゴジラじゃないと不満を漏らす人だって出てくるだろう。全ては初代ゴジラから始まっているのだ。世代間軋轢を生んだのも、シン・ゴジラが原点回帰したのも、1954年のゴジラが存在しなければ発生しなかったことだ。
この期待と不安すら初代ゴジラの呪いなのだから、この作品がどれだけ偉大な物かを改めて実感している。

でも新情報が出るたびに原理主義者同士で殴り合わないと、ゴジラ新作がやってきた気分にならないのも事実だ。
この面倒くささもひっくるめてこそのゴジラなのだろう。

【私は見た】ゴジラが初上陸した地、「大戸島」を訪ねてみた【たしかにあの島だ】

実は以前のブログからサルページした内容なんて言えない@Sanyontamaです。

今年のGWに大戸島に行ってきた。
え?大戸島なん聞いたことがない?

大戸島とは1954年にゴジラが日本に初上陸した場所だ。ゴジラの襲撃により島は壊滅状態となった。
その後大戸島は無人島と化し、現在は伝説の島として扱われている。

嘘です。1954年公開のゴジラの劇中でゴジラが初上陸した島です。
ロケ地は三重県の鳥羽市石鏡(いじか)となっている。その石鏡で撮影された映像が大戸島として使用されている。

まずは石鏡へのアクセス。
近鉄鳥羽駅から石鏡へはバスが出ている。いくつかのバス停を経ると石鏡へと到着。

鳥羽と言えば海の幸でも有名。大戸島探訪の道中に立ち寄った西村食堂は行列が出来ていたが、ここで昼食をとる。エビフライが異様なほど肉厚で「うんまあい!」と叫びたくなるほどに、プリプリだった。語彙が貧弱になるが、これ以外の表現が浮かばないほど上手かった。

やっぱり鳥羽は海の幸がうまい!と満足。西村食堂のすぐ近くにはゴジラがぬぅーっと顔を出したあの山が存在している。

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劇中ではこんな感じだったが、60年が経過して印象がかなり変化してしまった。

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建物が立ち並び、劇中とはすっかりと変わってしまったがこの辺りからゴジラが顔を出していた。
鳴き声が聞こえてきそうだ。通称「ゴジラ坂」と呼ばれているとのこと。

続いては本命の大戸島の浜。どうやら「大木の浜」と呼ばれているらしい。「扇の浜」じゃないよ!扇の浜と勘違いしてスマホで検索しても一向に出てこなかったので、凄く困ったんだよ!大木の浜だよ!間違いないでね!

その大木の浜は劇中のこのシーンで登場する。

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ゴジラが海に帰ったときに映し出された浜だ。この浜は現在も変わらぬまま存在している。

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こちらは60年前とほとんど変わらない姿を維持している。これを見た時には感動した。
なお、劇中と同じ角度から撮影するには石鏡第一ホテル神倶良の717号室に宿泊する必要があるので注意してほしい。結構お値段がした。

部屋から眺めた大戸島には大感動だが、目的は見る事ではなく、大戸島に上陸することだ。
なので、山道を下り大戸島へと向かったのだ。

ホテル「秀丸花ごころ」の駐車場わきが入口。

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とにかくここを下る。次にこんな場所に行きつく。

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なんだか帰ってこれなさそうな雰囲気があるが、とにかく突き進もう。ススメススメ。それ以外に道はない。本当にここ以外には道がないのだ。

そうして遂に大戸島に上陸した!

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辿り着いた瞬間イカダを探したくなる衝動に駆られる。
これが大戸島なのか・・・。同じ日本なのに、どこか異世界に飛び込んでしまったかのような不可思議な感覚が襲ってくる。ここにゴジラが上陸したのかと考えると感極まりそうになった。

お年寄りの海女さんがこの浜で作業をされていたので、道はきちんと整備されているから安心してほしい。ただし体力が必要になるので、その点の注意は必要だ。あと虫が多い。

そして上陸は終了。鳥羽駅へ戻り、最後は賀多神社へ向かった。
ここは劇中で神楽が行われた場面で使用されている。老人が「わけえ娘っ子を~」と講釈を垂れていたシーンだ。鳥羽駅から徒歩15分ほどの場所に存在している。

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今はすっかりと変わってしまったが、劇中の雰囲気を感じさせた。

60年前の映画だが今でも劇中同様の風景が残る作品は少ないと思われる。伝説的な初代ゴジラのロケ地となると海外からの注目度も高いはず。鳥羽市はもっとゴジラを押し出した方がいいのではと思えるほどだ。あの浜は劇中そのままなのだが、観光資源として有効活用できるはず。

海の幸もうまい。街の人は優しくて気前がいい。のんびりとして時間が流れていることもあり、完全に映画の世界へと飛び込んだような感覚に襲われる大戸島。
年末年始のご旅行にいかがだろうか。

【考察&解説】『シビル・ウォー』はスティーブ・ロジャースの物語に思えた話

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@Sanyontamaです。

キャプテンアメリカ シビル・ウォーの予告編が遂に解禁。
同名タイトルの原作はヒーロー同士の内紛を描いていたが、実写版もしっかりとその要素を投手する様子だ。


シビル・ウォーはアイアンマンも登場するため「アベンジャーズ2.5」や「アイアンマン4」的な立ち位置になるとも言われていた。
しかし、この予告を見る限りではしっかりと「キャプテンアメリカ」の物語に仕上がっていた。
予告編の重要な点を以下に要約した。

冒頭でキャップが「僕を覚えているか?」とバッキーに尋ねる。バッキーは「ああ、母親の名前はサラだ。君は靴に新聞紙を詰めていただろ」とキャップの家族や個人情報をスラスラと答える。
バッキーは指名手配だとキャップが発言する。

ハルクに登場したロス将軍がキャプテンアメリカに対し「多くの人間が君をヒーローだと認識しているが、なかにはそう考えていない人間もいる。管理されずに力を使うことは世界が許さない。何のビジョンも持たずに強大なチームを指揮している現実に世界が恐れている」と語りソコヴィア協定と書かれた冊子を手渡す。

ブラックウィドウがキャップに「バッキーが大切だということはわかるが、この件からは手を引くべきだ」と説得する。

アイアンマンがキャップの前に現れる。社長がキャップを殴りたいと苛立ちをあらわにし、険悪なムードが漂っている。
アイアンマンやウォーマシンに追われることになってもキャップはあきらめない。行く手を塞ぐすべての物と戦うと宣言する。

そしてアイアンマンとの闘いが始まる。
キャップは「すまない、他に手があればこんなことはしない。バッキーは友達なんだ」と語り、アイアンマンは「私もそうだった」と返答する。
キャップとバッキーがアイアンマンを殴る衝撃的な映像で予告は終了となる。


現代における唯一の親友


冒頭でバッキーがキャップことスティーブ・ロジャースの家族やクセを答えている。その解を聞いたキャップがどことなく安堵したような表情を見せている。
この短いやりとりで、キャップとバッキーの深い仲を簡潔に示しているのだ。

キャプテンアメリカになる前からの親友同士だったバッキーが現代に蘇った。バッキーはウィンターソルジャーとしてキャップの敵となった。しかし、それは洗脳されていたからだ。だからこそ、キャップは唯一の親友であるバッキーを殺めることをしなかった。予告編では彼らの和解から始まるも、政府はバッキーを許していないようだ。なぜならシールド崩壊の関係者だからだ。

キャプテンアメリカにとってバッキーは重要な存在だと言える。
「キャプテンアメリカ」にはアイアンマンやソーといった仲間がいる。しかし、それは「キャプテンアメリカというヒーロー」としての仲間だ。
盾を置き、マスクを脱いだ時に彼は「スティーブ・ロジャース」という一個人になる。その個人としての友人は現代には存在しない。彼は第二次大戦で時間が止まっていて、今でもそのギャップから完全に抜け切れていない。

だがそんな彼の元にバッキーが現れた。
キャプテンアメリカ以前からの親友であり、自身と似た運命をたどり現代に現れたバッキーこそがスティーブ・ロジャースという存在における唯一の親友なのだ。スティーブにとってはバッキーだけが真に心を許せる存在なのだろう。
だからこそ、バッキーが真の意味で「親友」なのではなかろうか。

予告編ではバッキーが未だ指名手配であり、政府が彼を追いかけていると判明している。そんな彼を守るとスティーブは決意している。友人だからだ。
かつてバッキーがスティーブを支えたように、今回は自分がバッキーを支える時だと考えているのではないだろうか。

ファーストアベンジャーズではバッキーがスティーブを慰めて肩に手を置く場面があった。
シビル・ウォーの予告編ではそのアンサーと思しき場面が挿入されている。

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窮地に立たされたバッキーをスティーブが守ろうとしていることはわかる。
それがこの肩に手を置く場面なのだろう。安心しろ、自分がついていると慰めているように見える。

原作では超人登録法賛成派のアイアンマンと反対派のキャプテンアメリカが対立した。映画版でもその登録法は少なからず関係しているだろうが、その上にバッキーも関わってくるのだろう。

バッキーは洗脳時に破壊活動を行いシールド崩壊の関係者となった。予告ではバッキーが正気を取り戻しているが、世間はそれを知らないとのキャップが語っている。アイアンマンも「制御できなければ悪と同じ」と語っていることから、世間ではバッキーがウィンターソルジャーのままであると認識されているのかもしれない。
だからこそ、超人的な力を持つバッキーを引き渡し、政府の管理下に置くべきだとアイアンマンは考えているのだろうか。それに反対するキャップと激突する流れなのだろうか。
この辺りはハッキリとしていないので、想像で語るしかないが、とにかく登録法とバッキーが物語に関わってくることだけは確かだ。

第二次大戦、そしてニューヨーク決戦、シールド崩壊に関わったキャプテンアメリカは自分自身の力で自由を勝ち取る重大さを理解している。自由は誰かに強いられるものではなく、誰かの元で作り上げるものではない。政府の管理下に入った場合、それはヒーローではなくただの軍隊や警察だと彼は考えているのだろうか。そこに自由はない。制約下で自由を勝ち取ることはできないと彼は理解している。
だからこそ、登録法に反対するのだろう。そして、あまりにも高潔だからこそ、唯一の親友であるバッキーに対して盲目的になってしまうのだろうか。

今回はキャプテンアメリカとして戦いに身を投じていく側面もあるだろうが、それ以前に「スティーブ・ロジャース」個人として戦いに身を投じていくのでは。
真の意味で親友と言える唯一の存在を守りたい。自由や平和、安全を守るというヒーローとしての信念もあるだろうが、それ以上に友を守るという個人的な情が全てを超越しているように見えてくるのだ。
親友であるバッキーを何が何でも守りたい。たとえ仲間であるアイアンマンと戦う羽目になっても、彼を守りたいと考えている。ヒーローやチームといった枠を飛び越え、完全に一個人として戦いに身を投じていくのだろう。

これは完全にキャプテンアメリカではなくスティーブ・ロジャースの心情だろう。シビル・ウォーとはキャプテンアメリカの物語でもあり、同時にスティーブ・ロジャースの物語でもあるはずだ。

予告ラストでキャップとバッキーが共闘しアイアンマンを殴る場面がある。

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どこまでも追いかけてくるアイアンマンを止めるために、二人は本気を出して戦っている。
バッキーの自由、そしてキャプテンアメリカの自由。キャップは友の自由を守るために彼らは戦っているし、バッキーは自由を勝ち取るために戦っているのだろう。
自分の自由を勝ち取るとの理由もあるが同時に友であるスティーブを追い詰めるアイアンマンを止めなければならぬと考えている可能性もあり得る。
図らずともバッキーはキャップと似た心情になっているのかもしれない。友を守るため。それは二人とも同じなのだろう。

哀しき対立


キャプテンアメリカは仲間であるアイアンマンよりも友であるバッキーを選んだ。
予告でキャップは「バッキーは友達なんだ」と発言し、アイアンマンは「私もそうだった」と悲しい返答を行った。

かつて命がけで世界を守るために戦った仲間が、自分ではなくテロリストを選択したことへの怒りと悲しみが存在しているはずだ。

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私もそうだった。
その返答をした時のアイアンマンは悲し気な顔をしている。

ソコヴィア決戦でアベンジャーズは「団結」という言葉を多用していた。だからこそ、アイアンマンはキャップを仲間として信頼していたし、そしてヒーローを飛び越え個人的な友としても認めていたのだろう。そんな彼が裏切ったのだから、悲し気な表情になるのも当然だ。

バッキー・キャップのタッグがアイアンマンを攻め立てる場面でもアイアンマンは本気を出せない。友を殺めたくはないからだ。本気を出せば二人は確実に死ぬ。だからこそ、本気を出せない。躊躇するからこそ、一方的に攻撃を浴びせられるのだ。

対してバッキー・キャップ本気だ。キャップは目の前で強大な力を目の当たりにしているから、生半可な気持ちと力では彼に敵わないと理解している。本気を出して戦わなければ死ぬし、アイアンマンを止めることが出来ないのだ。

友のために本気を出せないアイアンマンと、友のために本気で戦うキャプテンアメリカ。
葛藤と本気の対立構造が見事だ。アイアンマンが友の情を捨て去る時が来るのだろうか。

対立しあう彼らはどのような終着点を見出すのか。それが本当に想像できないのだからやってくれる。

娯楽路線から緩やかにハード路線へと舵を切っていたが、ここにきてそのハードさが存分に発揮された。
アベンジャーズというチームはどのような存在へと変貌するのだろうか。対立構造からいかなる形でインフィニティーウォーへと繋がるのか。それが全く見えてこないから面白い。

MCUという世界がどのような終わりを向かるのか、ますます目が離せなくなったことは確かだ。