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クソリプを送ってくる人の実生活が知りたい

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クソリプを見ると上のような気持になる@Sanyontamaです。

Twitterという人間動物園では様々なクソリプが飛び交っている。
突然会話に割り込んでくる人間は珍しくない。適当につぶやいた事柄に対しても突っ込みを入れてくる人はいる。

別に会話に割り込んでくるのは構わない。興味がありそうな内容であれば積極的に混ざりこんでくる姿勢は嫌いじゃないし、それもTwitterのだいご味だと思っている。
誤った知識を訂正してくれるのもありがたい。
これぐらいだった大歓迎なのだ。でも全員がまともなリプを飛ばしてくるとは限らない。

クソリプというのが存在する。個人の感想や会話に割り込んできて、意味不明な文章を投げ飛ばしてくる奴らがいるのだ。

クソリプの例を挙げてみる。
「ショベルカーってかっこいいよね」とつぶやいたとする。
「建設業界にショベルカーと呼ばれる機械は存在しません」「油圧ショベルだろ?馬鹿か?」「行政用語ではバックホウな」
とのリプが帰ってくる。これがクソリプだ。

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言いたいことはわかる。ショベルカーは存在しないし、工事現場ではユンボやバックホウの名で呼ばれている。リプライの全ては正しいことを言っているのだけど「ショベルカーかっこいい」というつぶやきに宛てるものではない。
見ず知らずの人間がいきなり意味不明な事を言ってくるのだから「なんだお前は?」となるのも仕方がない。何を言っているんだと、怒りよりも疑問の気持ちが大きくなってしまう。

「名称云々の話ではないですよ。大丈夫ですか?」と返答したくなること間違いなしだ。そんなことをしたらなぜか喧嘩に発展するのだから、クソリプ飛ばす奴らは日本語が通用しないのかと思えてしまう。
そもそもクソリプを飛ばしてくる奴は日本語だけを使ってくるとは限りません。Twitterには全世界の人がいて英語も中国語も使われてますよ? はい、これもクソリプ。

クソリプを投げ飛ばしてくる人は論点が違うというのを気づいていないのだろうか。
本題はただの感想だ。ショベルカーかっこいいという個人の感想。そこに「わかるよ」「えーあれのどこがいいんだよ」とリプを送るのなら理解できる。かっこいいという論点に沿っているし、つぶやいた人もそんな反応を望んでいるからだ。正式名称なんかは最初から求めていないのである。
だけど自己の知識を顕示するかのように行政用語を送り付けてくる奴には辟易する。なぜ論点が異なるリプを飛ばせるのか理解できない。

クソリプを貰った人は多いと思われる。
フォロワーが多ければRTされる確率も増えるだろう。そうすると餌を見つけたハイエナみたいに飛びついてくる奴が出てくる。
ちなみにハイエナは腐肉をあさる動物ではなく、集団で狩りをします。ライオンのほうが世間一般でいうハイエナ的行動を行っています。はい、これもクソリプね。

と、意味不明なつぶやきを行う人と気軽に触れ合えるのがTwitterのだいご味だ。
クソリプしてくる人は何が悪いのかを理解していない。さもしてやったりという顔をしているか、大真面目に「それ間違ってます!!」と目を血走らせているのか。
悪気が一切なさそうな点がクソリプをクソリプたらしめている点だろう。

クソリプを飛ばしてくる人はクソリプを飛ばしているという自覚がないのだと考えている。「ショベルカーかっこいい」という文面で、何を思ったのか思考の飛 躍を起こしてしまい「行政用語はバックホウ」に行きついてしまう。本当にそんな人がいるのだからTwitterは地獄だ。
ネットの世界なら顔も名前も知らない不特定多数の人と遭遇する。現実のその人を知らないからこそ、ずかずかと土足で足を踏み入れてわけのわからない事を喚くことも出来てしまうのだ。
自分の目線と相手の目線が同じだと自然と思い込んでしまうからこそ、クソリプが生まれるのかもしれない。現実の姿を知らないからこそ成しえる技なのだろう。

でも現実だと話は変わる。
初対面でも「一目見た」だけで、その人となりは漠然ながらだが読み取れてしまう。初対面だからこそ相手の気分を害さない様にこちらも取り繕うのが自然の流れだろう。
でもクソリプを送ってくる人は初対面だろうがお構いなしにずかずかと相手の心に上がり込んでいるのだろうか。
仮にそんな人がいたら社会生活なんかままならないだろう。現実でクソリプを飛ばしたら、疎外されることは確実だ。

だからこそ気になってしまうのだ。
クソリプを飛ばしてくる人は、実生活でもクソリプを飛ばしまくっているのだろうか。

「佐川が宅急便届けに来たよ」と家族に言われ「は?宅急便はクロネコヤマトの登録商標なんだが?宅配便って言えよ」と突っ込んでいるのだろうか。
街中で見ず知らずの人が会話をしていて「昨日家族と映画観に行ってさー」と聞いたら「お前は家族がいない人の気持ち考えたことあんのか?」と割り込んだりしているのだろうか。

気になって夜も眠れない。
クソリプ送ってくる人って、実生活でもクソリプ飛ばしまくってるのかなと。
中には本当にそんな人もいるだろうが、自分の周りでは見当たらない。クソリプのせいで社会から疎外されてしまって、僕の目に入ってこないだけなのかもしれない。
そんな人がこじらせてしまい、元来持っていたクソリプパワーを悪化させてTwitterとかでクソリプを飛ばしまくっているのかもしれない。

クソリプを飛ばす人の実生活って、本当にどうなっているのだろ。
実生活での評判はいいのに、ネットの世界ではクソリプを飛ばしまくっているとしたら、それはそれで闇という物だ。
やっぱりこの世って地獄ですわ。

シン・ゴジラが抱える初代ゴジラの呪い

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呪いのすさまじさに震えている@Sanyontamaです。

待ちに待った日がやってきた。謎に満ちた「シン・ゴジラ」がベールを脱いだ。


エヴァンゲリオンで知名度のある庵野秀明氏が総監督と脚本を務め、日本沈没、進撃の巨人を手掛けた樋口真嗣氏が監督と特撮怪獣を兼任する。

2014年にハリウッド版が公開され、そのゴジラらしさに往年のファンは感涙した。2016年は本家本元の日本が再びゴジラを世に放つ。ファイナルウォーズから11年を経て、国産ゴジラが遂にベールを脱いだ。

シン・ゴジラ、略称はシンゴジになるのだろうか。今回のゴジラは目が小さく、どこか奇形のような不安と恐怖を与えるデザインになっている。
戦後間もなく製作された初代ゴジラのリアリティに対して、311を経験した現代だからこそ成しえた原点回帰のデザインだと、イメージデザインを手がけた前田真宏氏は語っている。

庵野ゴジラ、ほえる!『シン・ゴジラ』特報&ビジュアル公開! - シネマトゥデイ


原点回帰。シン・ゴジラは初代を意識した作品だという事が明らかになった。確かに世界の日本社会の雰囲気も1954年と似ているのかもしれない。だが、その初代的雰囲気が面倒くさい。既に頭を抱えるしかない状況に陥っている。

初代の呪い


1954年に第一作が製作され、2004年にファイナルウォーズで一旦幕を閉じた。
初代ゴジラは明らかに核や戦争という物を意識して製作されていた。徐々に戦争の記憶が薄れていく日本人に対して警鐘の意味合いが込められていたと思える。
初めてのゴジラは、確実に戦争という物を体現した存在のはずだ。八岐大蛇が洪水の化身(様々な説はあるが)として描かれたように、ゴジラは核の化身として、現代の神ともいえる存在として生まれた。

だが、その後は戦争の重苦しさが消え去っていった。ヒーローのような存在へと徐々に変貌していく。シェーをするゴジラが出現し、いつしか凶悪怪獣から地球を守るスーパーヒーローになった。

1984年にゴジラがリブートされる。これは初代的な重々しさを残した作品に仕上がっていた。だが続編である89年のビオランテ以降は、再びヒーローのような存在へと移ってゆく。
ゴジラという存在がある種のアイドル的立ち位置を得て、年末の風物詩となったのが平成シリーズだ。

ゴジラ2000ミレニアムから開始されたミレニアムシリーズは、作品ごとに世界観がリセットされ、ゴジラの描き方も作品によって異なっている。完全なる悪としてのゴジラもいれば、善にも悪にも捉えられないゴジラもいた。

ゴジラは作品によって描き方が異なっている。
ヒーローであれば悪でもあり、悲劇的な存在でもある。つまり「これがゴジラ」という定義は存在していないのだ。

核に絡んだ出自を持っていればゴジラなのだろうか。
現代日本は311を経験して、核という物について考えさせられている。そんな日本にゴジラが再び出現するのは、必然的なのかもしれない。
311と初代と言うキーワードから察するに、核問題などが絡められた重苦しい作品になることは間違いないだろう。

人によってゴジラ像が異なる。
ゴジラに核や戦争と言ったメッセージを求める原理主義者も存在している。一方でゴジラにそんなものは必要ないと一蹴する人もいるわけだ。

ゴジラというジャンルは世代間の軋轢が凄まじい。時代がゴジラを変貌させていったから、自身の中にあるゴジラ像という物が固定化されてしまっている。
初代原理主義もいれば、チャンピオン祭り原理主義、平成原理主義、迫害されるミレニアム肯定者。その闇はあまりにも深い。
そんな軋轢の存在するジャンルにやってきたのが、陰鬱さを印象付けるシン・ゴジラだ。

初代原理主義からすると核問題が内包されているであろうシン・ゴジラには期待しかしていないだろうし、チャンピオン祭りや平成原理主義からしてみると、ゴジラの活躍が見られればいいだけだからこそ、陰鬱とした内容に不安を抱いているかもしれない。
平成シリーズなんかは怪獣の脅威や恐怖よりも、怪獣のかっこよさ、つまりはアイドル性をとことんまで描いている。だからこそヒットしたし、それ故にこの世代で育った人々はゴジラにかっこよさを求める傾向にあるだろう。
そんな人からしてみると、シン・ゴジラの不気味なヴィジュアルは「これゴジラじゃない」との結論へ至らしめるには十分過ぎる。
何度も言うが人によってゴジラの定義は全く異なっているのだ。

この面倒くささも、完全に初代ゴジラの呪いだ。
初代ゴジラというゴジラを完成させた作品を神格化してしまうのは無理もない。
シン・ゴジラの原点回帰を見て、やっとゴジラが戻ってきたと安堵する人もいれば、こんなのゴジラじゃないと不満を漏らす人だって出てくるだろう。全ては初代ゴジラから始まっているのだ。世代間軋轢を生んだのも、シン・ゴジラが原点回帰したのも、1954年のゴジラが存在しなければ発生しなかったことだ。
この期待と不安すら初代ゴジラの呪いなのだから、この作品がどれだけ偉大な物かを改めて実感している。

でも新情報が出るたびに原理主義者同士で殴り合わないと、ゴジラ新作がやってきた気分にならないのも事実だ。
この面倒くささもひっくるめてこそのゴジラなのだろう。

【私は見た】ゴジラが初上陸した地、「大戸島」を訪ねてみた【たしかにあの島だ】

実は以前のブログからサルページした内容なんて言えない@Sanyontamaです。

今年のGWに大戸島に行ってきた。
え?大戸島なん聞いたことがない?

大戸島とは1954年にゴジラが日本に初上陸した場所だ。ゴジラの襲撃により島は壊滅状態となった。
その後大戸島は無人島と化し、現在は伝説の島として扱われている。

嘘です。1954年公開のゴジラの劇中でゴジラが初上陸した島です。
ロケ地は三重県の鳥羽市石鏡(いじか)となっている。その石鏡で撮影された映像が大戸島として使用されている。

まずは石鏡へのアクセス。
近鉄鳥羽駅から石鏡へはバスが出ている。いくつかのバス停を経ると石鏡へと到着。

鳥羽と言えば海の幸でも有名。大戸島探訪の道中に立ち寄った西村食堂は行列が出来ていたが、ここで昼食をとる。エビフライが異様なほど肉厚で「うんまあい!」と叫びたくなるほどに、プリプリだった。語彙が貧弱になるが、これ以外の表現が浮かばないほど上手かった。

やっぱり鳥羽は海の幸がうまい!と満足。西村食堂のすぐ近くにはゴジラがぬぅーっと顔を出したあの山が存在している。

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劇中ではこんな感じだったが、60年が経過して印象がかなり変化してしまった。

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建物が立ち並び、劇中とはすっかりと変わってしまったがこの辺りからゴジラが顔を出していた。
鳴き声が聞こえてきそうだ。通称「ゴジラ坂」と呼ばれているとのこと。

続いては本命の大戸島の浜。どうやら「大木の浜」と呼ばれているらしい。「扇の浜」じゃないよ!扇の浜と勘違いしてスマホで検索しても一向に出てこなかったので、凄く困ったんだよ!大木の浜だよ!間違いないでね!

その大木の浜は劇中のこのシーンで登場する。

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ゴジラが海に帰ったときに映し出された浜だ。この浜は現在も変わらぬまま存在している。

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こちらは60年前とほとんど変わらない姿を維持している。これを見た時には感動した。
なお、劇中と同じ角度から撮影するには石鏡第一ホテル神倶良の717号室に宿泊する必要があるので注意してほしい。結構お値段がした。

部屋から眺めた大戸島には大感動だが、目的は見る事ではなく、大戸島に上陸することだ。
なので、山道を下り大戸島へと向かったのだ。

ホテル「秀丸花ごころ」の駐車場わきが入口。

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とにかくここを下る。次にこんな場所に行きつく。

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なんだか帰ってこれなさそうな雰囲気があるが、とにかく突き進もう。ススメススメ。それ以外に道はない。本当にここ以外には道がないのだ。

そうして遂に大戸島に上陸した!

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辿り着いた瞬間イカダを探したくなる衝動に駆られる。
これが大戸島なのか・・・。同じ日本なのに、どこか異世界に飛び込んでしまったかのような不可思議な感覚が襲ってくる。ここにゴジラが上陸したのかと考えると感極まりそうになった。

お年寄りの海女さんがこの浜で作業をされていたので、道はきちんと整備されているから安心してほしい。ただし体力が必要になるので、その点の注意は必要だ。あと虫が多い。

そして上陸は終了。鳥羽駅へ戻り、最後は賀多神社へ向かった。
ここは劇中で神楽が行われた場面で使用されている。老人が「わけえ娘っ子を~」と講釈を垂れていたシーンだ。鳥羽駅から徒歩15分ほどの場所に存在している。

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今はすっかりと変わってしまったが、劇中の雰囲気を感じさせた。

60年前の映画だが今でも劇中同様の風景が残る作品は少ないと思われる。伝説的な初代ゴジラのロケ地となると海外からの注目度も高いはず。鳥羽市はもっとゴジラを押し出した方がいいのではと思えるほどだ。あの浜は劇中そのままなのだが、観光資源として有効活用できるはず。

海の幸もうまい。街の人は優しくて気前がいい。のんびりとして時間が流れていることもあり、完全に映画の世界へと飛び込んだような感覚に襲われる大戸島。
年末年始のご旅行にいかがだろうか。

【考察&解説】『シビル・ウォー』はスティーブ・ロジャースの物語に思えた話

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@Sanyontamaです。

キャプテンアメリカ シビル・ウォーの予告編が遂に解禁。
同名タイトルの原作はヒーロー同士の内紛を描いていたが、実写版もしっかりとその要素を投手する様子だ。


シビル・ウォーはアイアンマンも登場するため「アベンジャーズ2.5」や「アイアンマン4」的な立ち位置になるとも言われていた。
しかし、この予告を見る限りではしっかりと「キャプテンアメリカ」の物語に仕上がっていた。
予告編の重要な点を以下に要約した。

冒頭でキャップが「僕を覚えているか?」とバッキーに尋ねる。バッキーは「ああ、母親の名前はサラだ。君は靴に新聞紙を詰めていただろ」とキャップの家族や個人情報をスラスラと答える。
バッキーは指名手配だとキャップが発言する。

ハルクに登場したロス将軍がキャプテンアメリカに対し「多くの人間が君をヒーローだと認識しているが、なかにはそう考えていない人間もいる。管理されずに力を使うことは世界が許さない。何のビジョンも持たずに強大なチームを指揮している現実に世界が恐れている」と語りソコヴィア協定と書かれた冊子を手渡す。

ブラックウィドウがキャップに「バッキーが大切だということはわかるが、この件からは手を引くべきだ」と説得する。

アイアンマンがキャップの前に現れる。社長がキャップを殴りたいと苛立ちをあらわにし、険悪なムードが漂っている。
アイアンマンやウォーマシンに追われることになってもキャップはあきらめない。行く手を塞ぐすべての物と戦うと宣言する。

そしてアイアンマンとの闘いが始まる。
キャップは「すまない、他に手があればこんなことはしない。バッキーは友達なんだ」と語り、アイアンマンは「私もそうだった」と返答する。
キャップとバッキーがアイアンマンを殴る衝撃的な映像で予告は終了となる。


現代における唯一の親友


冒頭でバッキーがキャップことスティーブ・ロジャースの家族やクセを答えている。その解を聞いたキャップがどことなく安堵したような表情を見せている。
この短いやりとりで、キャップとバッキーの深い仲を簡潔に示しているのだ。

キャプテンアメリカになる前からの親友同士だったバッキーが現代に蘇った。バッキーはウィンターソルジャーとしてキャップの敵となった。しかし、それは洗脳されていたからだ。だからこそ、キャップは唯一の親友であるバッキーを殺めることをしなかった。予告編では彼らの和解から始まるも、政府はバッキーを許していないようだ。なぜならシールド崩壊の関係者だからだ。

キャプテンアメリカにとってバッキーは重要な存在だと言える。
「キャプテンアメリカ」にはアイアンマンやソーといった仲間がいる。しかし、それは「キャプテンアメリカというヒーロー」としての仲間だ。
盾を置き、マスクを脱いだ時に彼は「スティーブ・ロジャース」という一個人になる。その個人としての友人は現代には存在しない。彼は第二次大戦で時間が止まっていて、今でもそのギャップから完全に抜け切れていない。

だがそんな彼の元にバッキーが現れた。
キャプテンアメリカ以前からの親友であり、自身と似た運命をたどり現代に現れたバッキーこそがスティーブ・ロジャースという存在における唯一の親友なのだ。スティーブにとってはバッキーだけが真に心を許せる存在なのだろう。
だからこそ、バッキーが真の意味で「親友」なのではなかろうか。

予告編ではバッキーが未だ指名手配であり、政府が彼を追いかけていると判明している。そんな彼を守るとスティーブは決意している。友人だからだ。
かつてバッキーがスティーブを支えたように、今回は自分がバッキーを支える時だと考えているのではないだろうか。

ファーストアベンジャーズではバッキーがスティーブを慰めて肩に手を置く場面があった。
シビル・ウォーの予告編ではそのアンサーと思しき場面が挿入されている。

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窮地に立たされたバッキーをスティーブが守ろうとしていることはわかる。
それがこの肩に手を置く場面なのだろう。安心しろ、自分がついていると慰めているように見える。

原作では超人登録法賛成派のアイアンマンと反対派のキャプテンアメリカが対立した。映画版でもその登録法は少なからず関係しているだろうが、その上にバッキーも関わってくるのだろう。

バッキーは洗脳時に破壊活動を行いシールド崩壊の関係者となった。予告ではバッキーが正気を取り戻しているが、世間はそれを知らないとのキャップが語っている。アイアンマンも「制御できなければ悪と同じ」と語っていることから、世間ではバッキーがウィンターソルジャーのままであると認識されているのかもしれない。
だからこそ、超人的な力を持つバッキーを引き渡し、政府の管理下に置くべきだとアイアンマンは考えているのだろうか。それに反対するキャップと激突する流れなのだろうか。
この辺りはハッキリとしていないので、想像で語るしかないが、とにかく登録法とバッキーが物語に関わってくることだけは確かだ。

第二次大戦、そしてニューヨーク決戦、シールド崩壊に関わったキャプテンアメリカは自分自身の力で自由を勝ち取る重大さを理解している。自由は誰かに強いられるものではなく、誰かの元で作り上げるものではない。政府の管理下に入った場合、それはヒーローではなくただの軍隊や警察だと彼は考えているのだろうか。そこに自由はない。制約下で自由を勝ち取ることはできないと彼は理解している。
だからこそ、登録法に反対するのだろう。そして、あまりにも高潔だからこそ、唯一の親友であるバッキーに対して盲目的になってしまうのだろうか。

今回はキャプテンアメリカとして戦いに身を投じていく側面もあるだろうが、それ以前に「スティーブ・ロジャース」個人として戦いに身を投じていくのでは。
真の意味で親友と言える唯一の存在を守りたい。自由や平和、安全を守るというヒーローとしての信念もあるだろうが、それ以上に友を守るという個人的な情が全てを超越しているように見えてくるのだ。
親友であるバッキーを何が何でも守りたい。たとえ仲間であるアイアンマンと戦う羽目になっても、彼を守りたいと考えている。ヒーローやチームといった枠を飛び越え、完全に一個人として戦いに身を投じていくのだろう。

これは完全にキャプテンアメリカではなくスティーブ・ロジャースの心情だろう。シビル・ウォーとはキャプテンアメリカの物語でもあり、同時にスティーブ・ロジャースの物語でもあるはずだ。

予告ラストでキャップとバッキーが共闘しアイアンマンを殴る場面がある。

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どこまでも追いかけてくるアイアンマンを止めるために、二人は本気を出して戦っている。
バッキーの自由、そしてキャプテンアメリカの自由。キャップは友の自由を守るために彼らは戦っているし、バッキーは自由を勝ち取るために戦っているのだろう。
自分の自由を勝ち取るとの理由もあるが同時に友であるスティーブを追い詰めるアイアンマンを止めなければならぬと考えている可能性もあり得る。
図らずともバッキーはキャップと似た心情になっているのかもしれない。友を守るため。それは二人とも同じなのだろう。

哀しき対立


キャプテンアメリカは仲間であるアイアンマンよりも友であるバッキーを選んだ。
予告でキャップは「バッキーは友達なんだ」と発言し、アイアンマンは「私もそうだった」と悲しい返答を行った。

かつて命がけで世界を守るために戦った仲間が、自分ではなくテロリストを選択したことへの怒りと悲しみが存在しているはずだ。

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私もそうだった。
その返答をした時のアイアンマンは悲し気な顔をしている。

ソコヴィア決戦でアベンジャーズは「団結」という言葉を多用していた。だからこそ、アイアンマンはキャップを仲間として信頼していたし、そしてヒーローを飛び越え個人的な友としても認めていたのだろう。そんな彼が裏切ったのだから、悲し気な表情になるのも当然だ。

バッキー・キャップのタッグがアイアンマンを攻め立てる場面でもアイアンマンは本気を出せない。友を殺めたくはないからだ。本気を出せば二人は確実に死ぬ。だからこそ、本気を出せない。躊躇するからこそ、一方的に攻撃を浴びせられるのだ。

対してバッキー・キャップ本気だ。キャップは目の前で強大な力を目の当たりにしているから、生半可な気持ちと力では彼に敵わないと理解している。本気を出して戦わなければ死ぬし、アイアンマンを止めることが出来ないのだ。

友のために本気を出せないアイアンマンと、友のために本気で戦うキャプテンアメリカ。
葛藤と本気の対立構造が見事だ。アイアンマンが友の情を捨て去る時が来るのだろうか。

対立しあう彼らはどのような終着点を見出すのか。それが本当に想像できないのだからやってくれる。

娯楽路線から緩やかにハード路線へと舵を切っていたが、ここにきてそのハードさが存分に発揮された。
アベンジャーズというチームはどのような存在へと変貌するのだろうか。対立構造からいかなる形でインフィニティーウォーへと繋がるのか。それが全く見えてこないから面白い。

MCUという世界がどのような終わりを向かるのか、ますます目が離せなくなったことは確かだ。


なぜ『白鯨との闘い』のポスターはダサイのか?その理由は『仕方がない』ことだった

クジラを生で見たことがない@Sanyontamaです。

「白鯨との闘い」という映画がある。「白鯨」の元となった事件を描いた作品だ。
日本では16年1月16日に公開予定であり、賞レース本命とも言われている。そんな期待値の高い作品でひと騒動発生していた。

それは「ポスターがダサイ」という層どうなのだ。
ダサイポスターといえばアベンジャーズが記憶に新しく、またしても日本の宣伝がやらかしたのかと思ってしまった。

まずはポスターを見比べてみたい。

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こちらはアメリカで使用されているポスターだ。一見すると怪獣映画を連想させる図柄だ。鯨が鯨には思えない巨大生物に見えてくる。
このポスターは必要最低限の要素しか見せていない。巨大な生物の目玉が不安感をあおり、謎に満ちた絵柄も相俟って期待を煽る仕様になっている。

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こちらが日本で発表されたポスターだ。俳優陣とキャッチコピーが目立つ。アメリカ版とは違った仕様だ。別作品かと思えるほど印象が異なっている。

アメリカ版と日本発表ポスターの見比べてみると、やはり日本発表ポスターがダサイと言われる理由もわかる。

日本発表ポスターはクリスヘムズワースを押し出している。彼はマイティ・ソー役で知名度を得ているから、まずは俳優で作品を認知させた方が良いと考えているのだろう。つまり作品内容よりも俳優で釣る作戦に出た。いつもの日本的なやり方がここでも発揮されてしまった。また日本の宣伝がやらかしたのか、と残念な気分になった。

だが待ってほしい。日本発表ポスターがダサいのは仕方がないことなのだ。今回ばかりは日本に文句を言うことは間違っている。

なぜ仕方がないのかと言うと、このポスターは国際版の1種類でしかないからだ。

このサイトが報じているように、日本で発表されたポスターは国際版の1種類でしかない。だから日本がやらかしたのではないわけだ。そもそもの国際版がダサかったということ・・・。

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イギリス版。

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台湾版。

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香港版。

同様のポスターを使用しいる国はほかにも存在しており、どれも「名著、白鯨の元になった実話」との文字が記載されている。日本版は文字が大きいだけで、名著白鯨~との文字すらも国際版ポスターに記載されている。文字の体裁や大きさは違えども、基本は国際版に則った仕様だ。

つまり、ダサいと感じる理由は国際版ポスターにある。なので日本の配給元や宣伝会社、日本の風潮に文句を言うことは残念ながら大間違いなのだ・・・。

日本がやらかしたのではないとの事実だけは伝えておきたい。

文字がでかすぎる点がダサさに拍車をかけているようにも思えるので、その点はに対しては文句を言っても大丈夫なのでは?