新海信者が『君の名は。』を見て新海誠に敗北した話
本当、どうしたんだろう。新海誠は一体どうしたんだろうか。東宝という大スタジオと組むと、新海誠ですら大衆性を得られてしまうんだろうか。
『君の名は。』を見た。あまりの衝撃に「いつもの新海じゃない…」と信者、いや新海保守派の僕は動悸、息切れが発生した。こんな終わり方は新海誠じゃない…。そう失望したのも事実。
だけど、この作品を読み解いていくと新海誠の成長っぷりに気付いた。なんてことだ、新海は先に行ったんだ。保守的な思想にとらわれすぎて、僕は成長していないだけなんだ。だからこそ、新海に負けた。完敗したことに気付いた。
ネタバレがあります。
『君の名は。』は不安しかなかった
新海誠に出会ったのは『秒速5センチメートル』でした。予告編を見て「なんだこの綺麗な絵は…」と衝撃を受け劇場へと足を運び、見事拗らせた。すごい、こんな作家がいるんだ。
以降、新海信者の道を歩むことになった。
新海作品は芸術的な背景と、どこかむずがゆく恥ずかしくなるモノローグの多様。それ故に、絵の評価は高くとも、肝心のお話は一部のオタクにしか受けなかったのも事実。それがドンピシャに僕の心にはまった。
そして、新海は長編に弱い。『雲の向こう、約束の場所』も正直中だるみしたし、『星を追う子ども』に至っては信者の僕ですら擁護し辛い、ジブリ丸パクリの作品だった。ただこの長編2作品も、新海誠らしい喪失という物は内包していたから、いつもの新海らしさはずっと貫き通してきたわけです。
ただ、長編の物語構成は本当に擁護しにくい。星を追う子どもを見たときは「もうお前は長編作るな」と願ったほど。だからこそ、短編の『言の葉の庭』が出たときは「新海、お前は自分を分かっているんだな、よかった」とペロペロしたくなった。
だからこそ『君の名は。』が発表された時は不安で胸が張り裂けそうになった。
ちょ、長編…?新海作品初となる300館規模の公開…?音楽はRADWIMPS…?
ちょっと待てと。新海、お前は自分が何をやろうとしているのか、理解しているのか、と。戻ってこい。今ならまだ間に合う、と。
「ポスト宮崎駿・細田守」と銘打たれたことにも怒った。
新海作品はなあ、両名のように大衆受けする作品じゃねーんだよ。拗らせた評論家気取りのオタクがあーだこーだと批評してペロペロするのが新海作品なんだよ、東宝は考え直せ。頼む。と願ったもの。
そして『君の名は。』が7月26日に公開された。信者としては初日初回に鑑賞するのはもはや義務だ。前売りを指定席と引き換える際には「新海の長編、ああ、不安だ…。どうしよう」と吐き気を催したほど。
劇場は異様な雰囲気に包まれていた。
初日初回なのに、カップルや学生集団の姿が目立つ。おいおい、と大声で突っ込みたくなった。
これは新海作品だぞ?どうせ今回も僕みたいな信者しか喜ばん、言っちゃ悪いが独りよがりで童貞臭さが漂う気持ち悪い作品だぞ。そんなのばかりを作ってきた新海誠だぞ?
おいおい、お前ら知らんぞ。どんな気持ち悪い作品が来ても、責任はとれないぞ。どんな感情に陥っても知らんぞ、と思った。まあ、言葉は悪いが、僕はその気持ち悪さが大好きだったわけだけど。
いつもの新海作品とは全く異なった客層に戸惑いつつ、拗らせたキモオタはひとり静かに着席した。
そして上映が始まる。山崎賢人主演の漫画原作映画の予告を2作品を見せられ「山崎賢人も大変だな」と同情しつつ、遂に『君の名は。』の本編が開始された。
以後、物語の核心及び終盤部分のネタバレがあります。
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僕の負けだ
鑑賞直後、劇場内のあちらこちらから「やばい」「泣いた」とかいう言葉が聞こえてくる。
しかし、僕は絶望した。こんな、こんな終わり方は新海じゃない…。なんで無事に出会うんだよ…。新海、そこはすれ違ったまんまでよかっただろ、いつもの終わり方でよかっただろ…。なんでこうした。なんでだ、新海…。と裏切られた気分だった。
新海は死んだ。もうかつての新海はいない。そんな絶望が襲い、途方にくれながら家路につくしかなかった。
おかしい、新海はどうしてしまったんだ。そうだ、東宝の入れ知恵があったんだ。そうとしか思えない。うん。とどうにかして自信に去来する虚無感を消し去ろうと、同時に新海を擁護しようとした。
だが、鑑賞後、様々な意見を目にするうちに、自分の浅はかさに気づいた。なんてことだ、これは新海作品の集大成じゃないか。
今まで自分は何を見ていたんだ。そうだ、これは集大成なんだ。
主人公・瀧と、ヒロイン・三葉がスマホ(携帯)でやりとりするのは『ほしのこえ』だ。
眠りで異なる時空に繋がり、そして大切なものを忘れてしまうのは『雲の向こう、約束の場所』だし、電車に乗りヒロインを探す、桜の描写、雪の降る歩道橋は『秒速5センチメートル』だ。
あの世とこの世を繋ぐ場所というのは『星を追う子ども』で、万葉集が出てくるのは『言の葉の庭』である。雪野先生も出てくるしね。
これまでの新海作品の要素を詰め込みまくった贅沢な作品なんだ。なのに、僕はラストで瀧と三葉が再会してしまったことばかりに囚われてしまった。いつものように、二人は再会せず、再会してもどこか喪失感のある締め方でなければならないんだ。
そんな考えに囚われ過ぎてしまっていた。なんてこった、僕は浅はかすぎたんだ。これは集大成じゃないか。
そして、『君の名は。』が明らかに東日本大震災をモチーフにしているという事実に気付いた瞬間、僕は倒れるしかなかった。
今作は瀧と三葉が入れ替わるという作品だ。だが二人は3年間の時空を超えて入れ替わった。予告でも印象的だった彗星がキーとなっている。彗星の落下により三葉は死んでしまう。それを回避するために、瀧は尽力するという作品だ。
この彗星落下により、街が消滅してしまう。これは明らかに震災をモチーフにしているというしかない。あの大震災を救おうとする少年少女を描いた作品と捉えることが出来るのだ。
311を救えたらという希望と願い。それをフィクションで、彗星落下という形ではあるけれど、実現した作品なのだ。皆が笑顔のまま暮らせる未来を手に入れる。それが『君の名は。』だ。
シン・ゴジラも震災をモチーフにしている。あちらはリアルシミュレーションとして描いたが、『君の名は。』は幻想的な青春SFファンタジーとして震災を描いた。両作品は表層的には全く異なっている。だけど、根本は同じなのだ。同じものをモチーフにしているのだ。
だが、『君の名は。』が凄まじい点は震災を青春SFファンタジーに落とし込んだ点だけではない。
瀧は後に大災害をもたらすことになる彗星を東京の自宅で目撃する。それを見て「美しい」との感情を湧き上がらせる。
これがのちに一つの街を消滅させる大災害を引き起こしたものであると、瀧は理解するのだけど「美しい」と感じた気持ちを誰も罪として攻めることはせず、瀧自身も悔やまない。
大災害の原因となった物を見て「美しい」という感情を否定することなく貫き通しているのだ。これは震災後の作品としては凄まじいというしかない。
津波を見て「凄い」と漏らせば周囲から「人が死んでいるんだ、何が凄いんだ」と言われるだろう。だけど『君の名は。』はそんな人が一切出てこない。美しいと感じたことは事実だし、実際に美しかったのだから仕方がない。それが人間の感情という物だ、ということを新海誠は伝えにきた。
僕はこの「美しい」という単純明快な言葉が孕んだ事実に気付いた瞬間、敗北した。
新海誠に僕は負けた。
新海誠はこんな社会的な投げかけをする男ではなかったはずだ。今までの新海作品は淡々と人を描いてきた。それなのに『君の名は。』では明らかに震災をモチーフにしてきて、それを見事なまでに青春SFファンタジーとして落とし込み、かつテンポもよくまとまり、素直に感動できる傑作に仕上がっていたのだ。
負けたよ。ラストばかりに気をとられて感情的になった自分が馬鹿だった。完敗だ。新海に僕は負けた。
所謂『震災後文学』だからこそ、いつものようなすれ違い喪失感を与えるラストであってはいけないんだ。再会してこそ、人々に希望を与える作品になるんだ。
いつものような、希望があるのかないのかはお前たちが読み取れ、といういつものようなラストでは駄目だったんだ。それでは読み取れない人が出てきて苦痛に感じてしまうだろうから。
あの人が三葉だったのか、それは読み手次第、なんていつもの新海らしい終わり方は震災を経験してしまった日本人からすると痛み以外の何物でもない。
そして「お前が世界のどこにいても必ず会いに行く」という瀧のセリフ。この作品は瀧が三葉を探しているだけではいけないこと、再会しなければならない事が、作中で示されているのだ。作中の伏線を回収するという意味でも、作品を一本の糸にまとめるという意味でも、再会エンドしかあり得ないのだ。そう、再会してこその結びなのだ。
なんてことだろう。この作品はいつもの新海らしさ、モノローグや背景美、そして切なさなどは残し震災をモチーフにしながらも大衆性を獲得するという、驚異の進化を見せつけた。
『君の名は。』は拗らせた僕のような信者を炙り出す作品なのだ。保守思想に囚われた僕たちを炙り出し、そして敗北させるために新海誠が仕掛けた罠なのだ。
新海誠は遠くに行ったという人がいるがそれは間違っている。
新海は確かに先へと進んだ。だけど、その速度は急なものであるが、僕たち信者が追いつくことが出来る速度のはずだ。僕たち拗らせた信者は、進むどころか座ったままだった。立ち上がることもせず「新海はこうあるべきだ」と過激な言論を巻き散らかした。だから、新海誠が先へと進んだことに気づけなかったんだ。
新海、お前は凄い成長したんだな。僕は昔のままだ。
お前に追いつくよ、どんな速さでもお前に追いつく。そう決心したよ。
新海、お前は今後名前で売れる作家になるんだろうな。細田や宮崎駿のようなファミリー路線は無理だろうけど、若者向けアニメ作家としての地位を築けると思う。新海、お前はどこまでいくんだ。どこへ行っても追いかけるからな。
ありがとう新海。自分の保守主義に気付かせてくれてありがとう。敗北させてくれてありがとう。感謝している。
文句を言うとすれば、劇伴の使い方だろうか。色々と過剰に使いすぎた気がしている。だが彗星が落下する場面で流れる『スパークル』の使い方は完璧というしかない。これ一曲で劇伴への文句も帳消しできる。
僕の負けだ。