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『君の名は。』の何が凄まじいのか、改めて考えてみた

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『君の名は。』を何度か見た。やっぱり凄い。新海誠は凄い。改めて実感させられた。

以前にも似たような記事を書いたけれど、やはり新海監督はとんでもない事をやらかしたのだと改めて理解した。これが更に進化した新海監督の姿。改めて新海監督が何をしたのか、僕がどう感じたのか記していこうと思う。

長文なので要約すると「新海監督は凄い。やっぱり僕は新海監督が好きだ」ということです。ちなみに新海作品全般のネタバレがありますのでご注意を。

遂に運命へ抗った

『君の名は。』はいつもの新海作品とは異なる。特筆すべき点はやはり「運命に抗った」ことだろう。
これまでの新海作品は「運命を受け入れる」傾向にあった。

『ほしのこえ』から『言の葉の庭』まで一貫して「惹かれあう男女が引き裂かれていく様」を描いている
ほとんどが男性側の視点で描かれており、自己陶酔的な目線で物語を紡いでいく。そして、ラストは二人が引き裂かれても「それが運命だから仕方がない」と受け入れて終幕している。

これまで新海監督は「運命には抵抗できない、受け入れるしかない」という作品ばかり送り出してきた。
だが『言の葉の庭』で変化を見せていることも挙げておきたい。この作品では『君の名は。』に通じる要素を見せている。主人公とヒロインは最終的に引き裂かれてしまうのだが、最後に主人公は「彼女に会いに行こう」と語っている。これまでの作品とは異なり、少しだけ運命に抗おうとする動きを見せているのだ。

そして『君の名は。』は『言の葉の庭』から更なる進化を遂げている。
『君の名は。』の大まかなあらすじは以下だ。
主人公の瀧とヒロインの三葉が夢の中で入れ替わる。ある日、その入れ替わりが起きなくなり、その原因を突き止めると、三葉は三年前に彗星落下による災害で死亡していた事実に行きつく。そして、瀧は三葉を救うために動き始める。

かつての新海作品であれば三葉の死を受け入れ「これが自分たちの運命なのだ」、と抗うことすらせずに自己完結的に物語は終幕していたはずだ。
だが『君の名は。』は違う。時間を戻してまで、大切だったあの人を生かすために、取り戻すために、必死に行動するのだ。三葉の死を運命だと受け入れることはしなかった。運命から脱却するために、瀧は必死に前へと進むのだ。必死に抗い続けるのだ。
そして運命に抗った二人は再会する。

これが今までの新海作品とは大きく異なる点だ。
二人が引き裂かれてもそのまま、という締めくくりばかりだった新海作品において特異点とも言える前向きさを放っている。

あの新海監督が運命に抗ってしまった。これまでの作品とは全く違う前向きさを見せつけた。
初見時はそれに気づけなかった。あの再会のラストだけで本質を看破したような気分になり「こんなのは新海じゃない!」などと喚き散らしてしまった。
新海監督は成長したのだ。それなのに僕は置いていかれたことを、いや、追いかけようともしなかった。その事に気づいたとき、僕は新海監督に負けたことを理解した。
僕は、何を

貫き通した美しさ

『君の名は。』は異常なまでに「美しさ」を貫き通している。
新海作品の売りは映像の美麗さだというのは周知の事実だと思う。しかし、映像の美麗さだけではなく、物語の何もかもが美しい仕上がりになっている。

物語の象徴である「ティアマト彗星」。1000年周期で地球を訪れるこの彗星が糸守町に落下し、街は消滅。三葉を含む500人以上の人々が死んでしまった。
そう、彗星は大災害の元凶であり、悲劇の象徴なのだ。
そのはずなのに誰も彗星を責めることも、犠牲者を憐れむこともしない。災害に付きまとう負の側面がほとんど描かれていないのだ。
犠牲者名簿や、糸守町の記録が描写され、その瞬間だけは「彗星災害は悲劇だった」という空気が形成される。だが、その悲しみを後の物語に引きずることはしなかった。

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瀧は三年前に彗星をみて「ただひたすらに美しい眺めだった」と語っている。しかし、その彗星こそ三葉を死へと追いやった元凶だ。
普通の作品であれば瀧の胸中には「なぜ俺はあの時彗星を美しいと思ったんだ。三葉を死へと追いやり、町を消滅させた彗星を美しいと思うなんて馬鹿な考えを」といったような自分を非難するような感情を描いていたかもしれない。誰かが瀧の「美しい」という思いを責めたり慰めたりしたかもしれない。しかし、瀧はそのような感情を一切引き起こさない。周囲の人間は誰も彗星落下を悲劇だと口にする者はいない。淡々と何が起きたのかを説明するだけにとどまっている。
彗星の存在に悲劇性をほとんど持たせていないのだ。

瀧は三葉に会うためにただ前を向いている。彗星を責めることもしない。過去を振り返ることもしない。ただ三葉に会うために進んでいくのだ。

仮に彗星を悲劇の象徴として描くのであれば、「スパークル」のような美しく切ないラブソングを流すことはしなかったはずだ。悲劇性を高めるのであればもっと悲しげな選曲になっていてもおかしくない。

だが、新海監督は悲劇性を高めなかった。彗星落下前の大騒動から一貫してラブソングを流し続けるほどに美しさだけに主題を置いているのだ。
変電所が爆破され役場は大騒動になり、町は混乱している。そんな大騒動が起きているのに美麗なラブソングを流し続けた。
この美しくも切ないラブソングは彗星が地表に激突する寸前まで流れている。
もはやこの演出は並の精神では成しえないだろう。
大災害が起きようとしているのも関わらずラブソングを流し続け、元凶である彗星を美しいものだと貫き通した新海監督の信念と演出力には言葉が出ない。ただ単に「凄い」としか言いようがない。言い換えれば「異常」な演出だ。

徹頭徹尾、物語を、彗星を美しいものとして貫き通したのだ。

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言えなかった言葉を言えた


新海作品としては直球ともいえるラブストーリーに仕上がっている『君の名は。』
遂に「好きだ」という言葉が飛び出した。今までの作品では「好き」と伝えることすらままならなかった。
秒速5センチメートルの二話で花苗が布団の中で「遠野君のことが好き」と独白する場面がある。しかし、これは悲しいが独白でしかない。自分の思いを相手に伝えられていない。

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だが『君の名。』は文字という間接的な伝え方ではあるが瀧が三葉に「好きだ」と伝えたのだ。
あの新海作品で、遂に出た。直球な告白が出てしまった。僕は驚いた。新海監督らしからぬ直球さにただただ驚いた。同時に「ああ、よかった」とも思えた。あの新海監督が遂に好きだと言うことが出来た。今までは言えずじまいだった言葉を、今回は遂に言えたのだ。こんな直球すぎる場面が出てくるなんて想像していなかった。だからこそ、落涙するしかなかったのだ。

だけど、やはり新海監督だなと感じる。三葉は自身の掌に書かれた「好き」だという言葉を見て、それを書いた人である瀧の名前を思い出せない。思いを伝えつつも何かを失ってしまうのはやはり新海監督だと感じさせられた。

それでも貫いた『喪失』


先ほども述べたように『君の名は。』には喪失が存在している。
『君の名は。』は新海監督にしてはマイルドだとか、リア充向けだとかいう評を見かける。確かに、そんな雰囲気を醸しているのも事実だ。いつもの新海監督らしからぬ要素が多い。

最後に瀧と三葉が奇跡的に再会を果たすからこの作品は一見するとハッピーエンドに見える。
だが、果たしてこれは単純なハッピーエンドなのだろうか。本作を読み解いていくとこの作品にも喪失が組み込まれていることが見えてくる。

物語の最高潮ともいえる、糸守町を救うために大騒動の場面で瀧と三葉が互いの名前を忘れてしまう。これはこの物語における喪失の代表だ。だが、本作の喪失はこんな単純なものではない。

物語終盤。就活を行う瀧が糸守の事を思い出す場面がある。
かつて糸守と彗星を必死に調べていた時期があった。だけど、なんでそんな必死になっていたのかが分からない。あの町に知り合いがいたわけでもない、と独白している。
そして追い打ちをかけるように「今はもうない町の風景に、なぜこれほど心を締め付けられるのだろう」と独白するのだ。
かつて必死だった思いを全て失ってしまう。なぜあれほど必死にあの町を調べていたのか、憑りつかれていたのか、それすら忘れてしまったのだ。二人の再会は絶望的と思えるほどの喪失がここに完成される。
全てを忘れているのに、ずっと何かを探している感覚だけは残っている。
その「探している物すら何なのかが分らなくなっている」という点は過去作品で貫いてきた喪失のテーマにぴったりと当てはまるのだ。

それでも二人は再会するしかない。大切な思いや記憶を失いつつも再会するしかない。喪失を抱えたまま再会し未来へと歩んでいく点は新海監督らしさと同時に新海監督らしからぬ矛盾めいた要素を兼ね備えているといえるだろう。
二人の再会に至るまでは新海監督らしさを保っている。喪失を抱えながらも再会するラストは新海監督がこれまでの型から脱却するため、あえて挑戦したのだと考える。
これまで新海作品の終わり方はワンパターンだとか揶揄されてきたが、『君の名は。』ではこれまでとは異なる再会の終幕だ。
だからこそ、僕みたいに拗らせた信者は新海監督が何をしたのかを読み取ることができず、再会してしまう終幕を「新海らしくない」などと切り捨ててしまうのだ。

二人が再開しているから、一見するとハッピーエンドに見える。
だが瀧は「好き」だと伝えたことすら忘れてしまっている。あの町に固執していた理由すら忘れている。なぜ彼、彼女でなくてはならないのか、その気持ちすら忘れているのだ。かつて大切だった記憶と思いを忘れてまで再会しなければならないという矛盾めいたラスト。
これは単純なハッピーエンドではなく、哀しさを孕んだ終幕なのだ。新海監督は単純なハッピーエンドではなく、いつものように喪失を抱えたラストを提示した。
その喪失を孕んだ哀しさは、新海監督の魔術によって美しさすら感じる物へと変換されている。だからこそ、大多数の人はハッピーエンドだと捉えたのだろう。だからこそ、これほどのヒットを記録したのだ。

新海監督は喪失を貫いた。大衆性の獲得というのは作家性を大きく殺すことになるはずなのに、新海監督は大衆性を獲得し、かつ自分らしさを保ち続けるという驚異の業を見せつけた。
まさか新海監督が過去からの脱却を図り、同時に伝統を維持し続ける作品を見せつけてくるとは思っていなかった。本当にすごいというしかない。語彙力だとかそういうものを失うほどだ。ただ凄いと言い続けるしかない。


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やっぱり新海誠は凄い、だが…


大衆性を獲得し新海作品初心者でも楽しめ、新海ファンはちりばめたセルフオマージュや喪失感を楽しめるという高度な作劇を見せつけた『君の名は。』

今回、新海監督は東宝と組んで脚本会議を行ったという。
その中で東宝側から「気持ち悪い」、「これは無神経」などの意見が出たようだ。新海作品の魅力でもある「気持ち悪さ」を東宝側も理解していたのだろう。そして、監督自身もその意見を受け入れたのだ。
それなのにもかかわらず、新海監督は自分らしさの象徴たる「喪失」を貫いたのだ。
東宝と新海監督の二人三脚は見事なまでに成功した。成功どころか相乗効果を表し『君の名は。』を大ヒットへと導いたのだ。
他の意見を取り入れた新海監督の胆力は凄いというしかない。

これは新海監督が新たなステージへと到達した作品だ。日本で自身の存在を周知させるの留まらず、アジア圏で確固たる地位を築くに至った。

突如として興行収入240億円を超え、世界で最もヒットした日本映画となった本作。
次回作へのハードルが高まったことは確かだ。
次はどのような作品を見せてくるのだろうか。一ファンとして期待と不安がいれ混じっている…。