LOGのハウス

エンタメ系メディア

なぜ私は『ウルトラマンX』にユナイトできなかったのか? 歪みに満ちた作品を総括する

f:id:Sanyontama:20151229022035j:plain


こんにちは@Sanyontamaです。

ウルトラマンXが最終回を迎えた。まずはTVシリーズでありながら、さも当然のように映画並みの特撮を見せつけてきたスタッフ、世界観に説得力を持たせてくれたキャストには敬意を表したい。

映像面に関しては文句の付けどころが存在しないほどの完成度を誇っていた。テレビシリーズなのに贅沢な都市破壊を魅せてくれたし、戦闘もワンパターンに陥らず毎度毎度捻ってくるという姿勢には唸るしかない。

だが、この作品にはどうしても「ユナイト」しきれなかった。映像とキャストの好演には目を見張るものがある。だからこそ粗が目立った。シリーズ構成とまとめ方に不満があるのだ。

見えてこない軸


この作品が抱える最大の問題とは「物語の軸」が見えてこない点だ。
ウルトラマンXは怪獣との共生を目指す、ヒーロー物、怪獣者のアンチテーゼというべきテーマが存在している。
物語初期の段階では、確かに怪獣との共生という点を目指していた。主人公の大地もスパークドールズに圧縮された怪獣をいつかは元の姿に戻し、人類と共生する世界を作ろうと努力していた。
第2話のバードンも怪獣的ではなく生物として描こうとしていた。産卵を控えているために、ビルや鉄塔で巣をつくる生態は怪獣ではなく生物と呼べる描写であった。現実世界にも通じる有害鳥獣問題にもリンクする、社会的な問いかけを見せてくれた話でもある。
彼らを駆除することが本当に正しいことなのかと、視聴者に問いかける意味合いもあったはずだ。
彼らはただの生物であり、自分たちが生きるために巣をつくる。その巣をつくる行動が人間を恐怖に陥れている。そのような相容れない両者が、いかにして融和していくのかを描こうとする決意が見られた話がこの第2話だ。

このように物語初期の段階では「共生」というテーマが色濃く描かれていた。
だが、その共生というテーマは徐々に鳴りを潜めてゆく。
第5話ではウルトラマンゼロとの共演が行われ第8話ではマックスが登場した。この客演から、軸がブレ始めたように思える。
共生のテーマよりも客演の方向に舵を切った印象を受けた。特に第13話と第14話でのギンガ&ビクトリーとの共演が決定打だった。
大地はエクシードエックスの力を十分に発揮できていないから、ショウに特訓されるという流れが挿入される。
この流れを見て「こいつらは何をしているんだろうか」と寒気がした。怪獣との共生がテーマだったはずが、いつの間にか主人公の成長と言う物にテーマが置き換わった風に見えてしまったからだ。
特訓を行う暇があるのなら、共生社会を実現するために動くべきだ。特訓することで共生社会を構築できるとでもいうのだろうか。無駄な点に話数を割いたおかげで、共生というテーマがどんどんと薄まっていった。

特訓以降は「この作品は何がしたいのだろうか」と疑問が増大する一方となる。
共生というテーマを描こうとする努力は確かに感じられた。
ピグモン回も共生を強く意識した作劇だった。ピグモンは少女を助けた、だから親もピグモンを受け入れた。その流れはすんなりと受け入られる。だが、その受容は一部の人間にとどまっている。社会の一部分ではあるが受容されたという事実は確かに「共生」の第一歩ではある。
だが、その受容は家族と言う小さな社会組織でしか達成されていない。大地の理想とする共生社会というものとは程遠い結果でしかないのだ。

f:id:Sanyontama:20151229022441j:plain


その後は社会全体と怪獣が共生していく流れを描いていくのかと予想したが、そういう描写は一切存在せずにネクサスが登場し遂には最終回まで突っ走ってしまった。
なんだか勢いでごまかされたように思えこの作品は「共生」を描く気があったのかと問いたい気分に陥るのだ。
最終回のハイブリッドアーマーで共生が実現されたという意見もあるが、それは大きな見当違いだと思う。
大地は「怪獣を元の姿に戻し、人類と共生する社会」を夢見ていた。ハイブリッドアーマーでは共生の夢が果たせていないのだ。共生社会を描けなかったから、無理やり共生を感じさせる演出を行ったとしか思えない。

ウルトラマンXは怪獣との共生を描こうとする努力は見られたが、その最終形態である「怪獣と人類の完全なる融和による共生社会」という物は描かれなかった。社会の一部分でしか怪獣は受け入れられておらず、社会全体で見ると怪獣は恐ろしい存在のままでしかないのだ。
共生のテーマを描き切ろうとする努力は見られたが、ネクサスとの共演で努力すらも完全に捨て去ったように見えてしまった。
共生という未来の形は永遠に作られることなく物語は幕を閉じた。

結局何を描きたかったのだろうか。
母親の導きでエクシードエックスに目覚めていたことから、家族愛的な面も描きたかった風に見えてくる。最終回で両親の思いが判明するあたり家族愛もテーマの一つだったのかもしれない。その思いは突然に判明するので視聴者としては置いてけぼりな感じが強すぎた。
ウルトラフレアで行方不明になった両親を探す物語でもなかった。それなのに最終回直前で両親の声が突如届きその発信源の特定を始めた。まるで両親の行方を捜すことが物語の目的だと言うような突飛な流れだったのでついていけない。
共生に関してはこれまで述べたように描けてはいない。
過去のウルトラマンとの客演に重きを置くわけでもない。(これに主軸を置くとメビウスの焼き直しになるから仕方がないのだが)

何がしたいのかが見えてこない。そんな作品だった。
過去のウルトラマンと客演を始めたり、密着警察24時のパロディを行っていたり、「共生」を描く気が本当にあったのかと疑問に思えてしまう構成だった。

特撮は本当に素晴らしい。映画と言われても疑問が浮かばないほどのハイクオリティだったし、キャストの演技も作品に説得力を持たせていた。だからこそ、何を提示し何を訴えようとしたのかがますます分からない。この歪んだ構成こそがユナイトできない最たる理由なのだ。もっとテーマを固め、ぶれないように仕上げてほしかった。粗が目立ちすぎる残念な作品になってしまった。

【総括】アニメ『ワンパンマン』が見せつけた王道ヒーローの姿

f:id:Sanyontama:20151222092006j:plain


今期アニメの中ではトップクラスに面白かった「ワンパンマン」が終わってしまった。どうにかして二期を実現してほしいアニメの筆頭でもある。

ワンパンマンは09年にONE氏がウェブサイトで発表した漫画が元になっている。アニメ版はアイシールド21の作画で有名な村田雄介氏がリメイクした漫画版が元になっているようだ。
Web漫画を有名漫画家がリメイクし、それがまたWeb漫画として掲載されるというすこしややこしくも面白い経緯を持っている。ちなみに漫画は読んでいないので、アニメ版について記している。

以下ネタバレがあるので注意してください。

TVアニメに関しては放送されているものは手当たり次第録画して、鑑賞せぬまま消去することもしばしばあったのだが、ワンパンマンというのは名前だけは知っていたため鑑賞してみた。これが中々に面白いのだ。
プロットはとてつもなく単純明快で、圧倒的な力を持つ「サイタマ」が怪人を一撃で倒していく。ただそれだけの物語なのに、どういうわけか面白い仕上がりになっている。

主人公サイタマはどんな敵でも一撃で倒してしまう。この世界で最強の部類に分けられているS級ヒーローですら苦戦する怪人、隕石すらも一撃で屠って屠ってしまうのだ。その強さは頼りがいを通り越し、見ているだけで笑えてくるほどである。
この作品はギャグマンガのカテゴリーに分けられているようだが、ギャグたらしめている所以がサイタマの強さなのだ。

強さの描写を突き詰めた場合、作品はどのような形態に至るのかを描いた作品だ。
一撃で敵を倒す。これがこの作品の肝だ。第一話でサイタマが「またワンパンで倒しちまった」と発言することで、視聴者に彼の強大さが簡潔に説明される作りとなっている。
第二話ではサイボーグのジェノスが苦戦する。ジェノスは街が吹っ飛ぶほどの火力で怪人と対決するも息の根を止められず体のパーツが吹き飛ぶほどの重傷を負い、遂には自爆して敵諸共吹き飛ばすことを決意する。しかし、自爆の寸前でサイタマの平手打ちが怪人に命中し、一発で葬られてしまうのだ。
この緊迫感とあっけなさの同居が、ワンパンマンをギャグに至らしめている理由だろう。

f:id:Sanyontama:20151222092446j:plain


強さを突き詰めると緊迫感が欠如してしまう。だからこそ、他の漫画はあからさますぎる最強の描写を避けてしまう。敵を一撃で屠る最強の主人公を描いても物語が進むにつれて、主人公を超える強敵が出現する流れを形成してしまうことが多い。バトル漫画のセオリーだから仕方がない。だが、ワンパンマンにはそのセオリーが存在しない。本当に、どんな敵でも本当に一発で葬ってしまう。
だからこそ、そのあっけなさが視聴者の心に「まじっすか?」という衝撃の感情を発生させる。その衝撃は物語を重ねていくにつれて「笑い」へと変換させられていく。
どんな敵をも一撃で倒すという事を認知させることで、サイタマの強さは様式美的な笑いへと昇格されているのだ。
吉本新喜劇を思わせる形式的な笑いをワンパンマンは有しているわけだ。
「またワンパンか」と分かってはいるのだが、自然と口元がほころんでくるような笑い。それがワンパンマンが放つギャグの形だ。

その圧倒さは笑いを生むのと同時にサイタマという存在に絶対的な信頼感を植え付けることに繋がっている。
深海王編ではS級ヒーローの多くが倒され、市民が恐怖のどん底に叩き落され、ジェノスも戦闘不能に陥る。そんな状況下なのにC級ヒーローの無免ライダーが「ヒーローだからこそ深海王に立ち向かわねばならない」と怯むことなく深海王に立ち向かう。しかし、力が及ばない。
S級ヒーローですら叶わない当てなのに、作中では最下級ランクのC級ヒーローが立ち向かう事は無謀な行動だ。だがヒーローだからこそ逃げてはならないという、王道ヒーローイズムに視聴者は心を奪われてしまう。無免ライダー頑張ってくれ、とエールを送りたくなるのだが、同時に敵うわけがないという諦観も襲ってくる。それが兄弟な力を見せつける深海王への恐怖を形成することにも繋がっている。

この正義と悪の演出が王道的でありながらも、抜群のタイミングで落とし込まれることで視聴者は自然と「サイタマ」を欲してしまう。正義が悪に屈してしまう重大なる危機。あってはならない危機。それが発生しようとしているのだ。だからこそ、サイタマの早急なる到着を願ってしまう。ドラゴンボールでクリリンが「悟空早くきてくれー!」と叫ぶ場面があったが。視聴者はそれと同じ感情を抱いてしまうのだ。
サイタマの強さが圧倒的だから、どんな敵でも倒せるからこそ、彼ならきっとなんとかしてくれうという信頼感を作り上げている。だからこそ、サイタマはまだかと焦燥してしまう。そして、サイタマの姿を見た瞬間に安堵してしまうのだ。
もう大丈夫だ、彼が来たから安心だ、と脱力するほどの安心感を得てしまう。

ダークマター編では街を一瞬で吹き飛ばした軍事力を持つ宇宙人の首領「ボロス」に一人で立ち向かう。ボロスの圧倒的な力は、作画と言う面で演出されている。街を一瞬で吹き飛ばした宇宙船を半壊させるほどの力を出し、サイタマを月にまで吹き飛ばす強大さ。それが視聴者を絶望へと陥れる。もしかするとサイタマは敗北するのでは、と不安感を抱くと同時に、彼ならワンパンでやってくれるという期待感を高めているのだ。
ウルトラマンの劇中で怪獣と戦うウルトラマンへエールを送る市民のように、視聴者は自然にサイタマへ期待し、応援しているのだ。

彼ならきっと、きっとやってくれる。その安心感こそが、彼をヒーローたらしめているのだ。そして、ボロスとの戦いを目撃したのが作中では存在しないのだ。世界を救ったのは彼なのだが、作中の人物はその事実を知らない。知るのはジェノスと視聴者のみだ。だがジェノス自身はサイタマの戦いを目撃したわけではない。彼の戦いを目撃したのは視聴者だけなのだ。だからこそ、視聴者はサイタマに助けられた市民のような目線で彼を見てしまう。彼こそが地球を救った本物のヒーローだという事情を唯一知る存在が我々しかいないからだ。

作中でのサイタマはヒーローとして認知されていない。圧倒的な力はインチキと称されるほどであり、ほとんどの人間が彼の力に懐疑的なのだ。だが視聴者からしてみると彼こそが本物の「最強のヒーロー」になるという巧妙な作劇がなされている。
絶望と恐怖をこの上なく描き出す演出、緊迫感とあっけなさが同居している構成。それがこの作品をギャグに至らしめると同時に、王道のヒーロー物として完成させているのだ。彼のヒーローっぷりを知るのが作中ではジェノスだけ。視聴者は思わずジェノスと同じ目線でサイタマを見てしまうのだ。なぜ、彼の実力を理解しないのか?とインチキと罵る人間への怒りすら覚えてしまう。作中での活躍を知るのがジェノスと視聴者だけというのが、彼の孤高なヒーロー性を極限まで高めているのだ。

圧倒的な強さの描写は笑えてしまうというのを真剣に描いた作品でもあり、同時に王道のヒーローアニメでもあるという高度な作劇をこなした傑作。
この作品が終わってしまうのはもったいない。彼の活躍が見れなくなるのは本当に残念だが。だが漫画版もあるので、そちらを読んでみることにしようと思っている。なにより、こんなハイクオリティを見せつけてきたアニメ版をもっと見ていたい。
彼のワンパンっぷりを再び動く姿で鑑賞できることを願っている。

『劇場版ラブライブ!』を公開した6カ国の興行収入をまとめる アメリカでは16万ドル超を記録

f:id:Sanyontama:20151221003707j:plain



紅白歌合戦出場に解散騒動など、アニメ以外でも話題を振りまいているラブライブ。
日本では6月に公開された劇場版「The School Idol Movie」が28億円の興行収入に達するなど、その人気は確かなものだと証明された。ファンミーティングも中国や台湾で開催予定。その熱は世界的に広がっている。

劇場版は世界各国でも「一般公開」されている。(多くの国では数日の限定公開になっているという注釈はつくが)
世界公開後、各国のファン動向が発信されているがその「結果」についての報告は少ない。
このブログではアメリカやオーストラリアの状況を報告してきたが、今回は各国の興収をまとめてみる。年末ということもあるので総決算しよう。

データは各国ごとにまとめている。通貨表記はアメリカドルで統一。
公開日、初登場ランキング、上映スクリーン数(便宜上上映館数と表記)と興行収入の順に記載している。

公式サイトによると公開国は14か国となっている。その中から興収を調査できた6カ国の情報を掲載していく。なおタイとイギリスはイベント上映のため、興収の発表予定が無い様子。

Love Live! Official Worldwide Website

 

アメリカ


一般公開だが上映日数限定の公開。
公開日  9月12日
初登場  不明
上映館数 32

興行収入 16万ドル超(配給元発表)
ソース:http://www.azolandpictures.com/about-us/

一部まとめブログなどでは「アメリカ興収115,840ドル」との記事を出しているが、これはBoxofficeMojoのデータが参考にされている。
Love Live! The School Idol Movie (2015) - Box Office Mojo
Mojoより配給元発表が正しいと思われるので、当ブログでは配給元発表を採用している。

ニュージーランド


一般公開だが上映日数限定の公開。
公開日  2015年9月12日
初登場  29位
上映館数 6

興行収入 3,082ドル
ソース:New Zealand Box Office for Love Live! The School Idol Movie (2015)

 

オーストラリア


一般公開だが上映日数限定の公開。
公開日  2015年9月12日
初登場  22位
上映館数 10

興行収入 31,832ドル
ソース:Australia Box Office for Love Live! The School Idol Movie (2015)

マレーシア


公開日  10月1日
初登場  16位
上映館数 7

興行収入 12,289ドル
ソース:Love Live! The School Idol Movie (2015) - International Box Office Results - Box Office Mojo

 

韓国


公開日  9月3日
初登場  13位
上映館数 17

興行収入 832,662ドル エヴァQの213,459ドルを抜く
ソース:

Love Live! The School Idol Movie (2015) - International Box Office Results - Box Office Mojo

 

台湾


公開日  8月7日
初登場  8位
上映館数 8

興行収入 107,241ドル
(USD表記データがなかったので353万台湾ドルからUSDに計算。レートは0.030380)
ソース:[票房] 台北[2015/8/22~8/23]我的少女時代冠軍 - 看板 boxoffice - 批踢踢實業坊

 

6カ国合計興収


1,147,106ドル (アメリカは16万ドルと仮定して計算)




以上6カ国のデータを調査できた。
未確認だが、香港ではドラゴンボール復活のFとならび100万香港ドルに達したとの情報もある。ジブリ・ドラえもん以外で100万香港ドル達成はドラゴンボール、エヴァ新劇場版三作品、時をかける少女、デジモンのみらしい。深夜アニメでこの数字は驚異的なものになるようだ。2000年以降のTVアニメ映画初の100万香港ドル越えとの情報もある。香港では女児を連れた家族連れが目立ったという。
幅広い世代への浸透度は日本以上かもしれない。ラブライブやばい。

上記6カ国以外の国は興収データを発見できなかった。小規模公開なのが原因だと思われる。小規模ゆえにランキング上位に食い込むことが難しい。どこの国もランキングが10位以下は切り捨てているため、詳細が全く分からない仕様になっている。そのため、調査できたのは公開14カ国中6カ国のみのデータとなってしまった。

各国の興収が気になっている人も多いと思われるので、少しでも役に立てれば光栄だ。

なお各国の配給元に興収データ提供を依頼すると問題発生の懸念があるので連絡は取っていない。

このデータ収集に協力いただいた方にはこの場で感謝の意を表明する。本当にありがとうございました。


「J・J・エイブラムス」という天才を称賛したい

f:id:Sanyontama:20151219233426j:plain


天才を通り越して、映画界の至宝だと考えている@Sanyontamaです。

J・J・エイブラムスという男がいる。
映画やテレビで活躍し、様々なヒット作を手掛けた映像作家だ。話題の「スターウォーズ/フォースの覚醒」の監督脚本製作を手掛けている。
製作、脚本、監督のみならず作曲までこなせてしまう天才だ。
ロマンスからSFまで、相容れなさそうなジャンルを手掛けてしまうあたり、この男の頭はどうなっているのだろうかと気になるわけだ。

スターウォーズ/フォースの覚醒に関する記述があるのでネタバレに注意してほしい。

J・J・エイブラムスという男を意識したのはクローバーフィールドが最初だ。
劇場で予告を見た瞬間に電撃が走ったのを覚えている。自由の女神の頭部が吹っ飛んでくるという衝撃でしかない描写に硬直した。これは観に行かなければならないと、その瞬間に決めていた。どの作品にその予告が付いていたのすら思い出せないほどだ。本編の存在をかき消してしまうほどに、クローバーフィールドの衝撃が大きかった。

J.J.はクローバーフィールドで製作を担当している。徹底した秘密主義で制作が行われた。物語も怪獣から逃げる一般市民が撮影したビデオカメラという設定で進行し、謎が明確になることはなかった。
この作品で、J.J.という男は謎を与えるだけ与えて観客の興味を煽り高揚させることを得意としているのだと実感した。

謎を与えて興味を煽るプロモーションにより、クローバーフィールドは成功した。2500万ドルと言う製作費に対して全世界1億7000万ドルを超えるヒットを記録したのだ。
本編では謎が何一つ解決していない。それなのに、謎が謎を呼ぶプロモーションだけで観客を劇場に向かわせて利益を上げてしまった。その手腕はビジネスマンとして天才的と言える。この男はただ者じゃないと記憶した瞬間だった。

J.J.はスタートレックのリブートを監督した。新スタートレックの映画「ネメシス/S.T.X」は興行的に失敗して続編も立ち消えになったらしい。
スタートレックのリブートが製作決定になった際、ファンはどのような気持ちだったのか。不安があったのか、それとも期待か。当時のファンに渦巻く感情を推し量ることは出来ない。
だけど、J.J.が監督をしたスタートレックをみてどう感じたのだろうか。恐らく立ち上がって叫びたくなるほどだったはずだ。

f:id:Sanyontama:20151219233802j:plain


スタートレックシリーズは見たことがないし、そもそもスタートレックをほとんど知らない。名前しか知らない状態だった当時の自分でもめまいがするほどに楽しめた。殴りこんでくるような怒涛の展開に目が離せなかった。
スタートレックというビッグシリーズを見事なまでに再起動させ、それでいてファン向けの二次創作にもなっていないという完璧な仕上がり。この男はやはりただ者ではないとの確信に重みが増した。
続編のイントゥ・ダークネスも見事な出来栄えで拍手を送りたくなる完璧さ。気づいたらJ.J.という男の虜になっていた。この男が作る映画にハズレはないんだな。そう考えてしまい、もはや神のように崇めていた。

そしてこの男がスターウォーズを監督すると聞いたときは硬直した。
あのスターウォーズをJ.J.が監督する?
その事実に歓喜と言うよりも不安が大きかった。
私はスターウォーザーではない。スターウォーズを見たことがあるが内容をほとんど覚えていないし、思い入れもない。なんとなく知っているとい程度だった。
だが、スターウォーズの偉大さは理解している。これはアメリカどころか映画を代表するシリーズだ。
映画コンテンツビジネスの嚆矢とも言われている作品であり、今なお世界中に多くのファンを抱えている現代の神話だ。
その神話の続編を製作するとなれば一大事件である。
様々な監督が名前に上がり、そして消えていった。みなスターウォーズという神話の重圧に耐えられないからと拒否したらしい。
それなのにJ.J.は監督することを受け入れた。彼はスターウォーズファンのようだ。ついに来たか、と感情が高ぶっていたのかもしれない。だが一度は監督を拒否したという報道が流れたため、彼の葛藤が見て取れる。

f:id:Sanyontama:20151219233517j:plain


実際に作るのと見るのでは立場が違う。
ファンだから、俺はこの作品を深く知っているから、と単純な理由で制作していけば、ファンが喜ぶだけの二次創作にしかならない。実際にそうなった作品は古今東西にありふれている。
J.J.が監督を拒否した際は「観客でいたい」との理由だった。大好きだからこそ、作りたくない。世界を汚したくないという気持ちがあったのだろう。そこには「自分が作れば独りよがりのスターウォーズになってしまうかもしれない」との悩みがあったのかもしれない。だからこそ、一人の観客としてスターウォーズを見続けていたいと考えていたのだろう。世界を汚したくない気持ちが強かったのだ。
しかし、J.J.は監督を承諾した。どういう経緯があったのかは分からないけれど、これは大きな決断というよりも、ある意味死にに行くようなものだろう。
神話の続きを構築しなければならないのだ。これを失敗させてしまうと彼は映画界から追放にも似た扱いを受けるだろうし、面汚しとして永久に名を残してしまう。
それほどの重圧が存在する、一大シリーズだ。それなのに、承諾したのだから彼の神経は相当図太いのかもしれない。
そして、彼はフォースの覚醒を完成させた。


事前情報は予告編以外にほとんど公開されていない。クローバーフィールドを思い起こさせる秘密主義だ。またしても、観客の期待を煽りに煽るJ.J.節がさく裂した。そんな持ち味を生かしまくるJ.J.はスターウォーズをどのような作品に仕上げているのだろうかと気になって仕方がない。

そして、フォースの覚醒を公開日に鑑賞した。
何度も言うがスターウォーズに思い入れはないし、シリーズも漠然とした認識しか存在していない。見たことがあるのはEP3と4ぐらい火山でアナキンがダークサイドに堕ちた場面しか記憶にない初心者だ。
世界が盛り上がる祭りだからと勢いで鑑賞してみたが、どういうことなのだろうか。
不思議なことに「なつかしさ」を感じさせた。なぜだろう、私はこの人たちを昔から知っている身近な存在に思えてしまった。ああ、帰ってきたのだなと、ハン・ソロやレイアの姿を見て謎の安心感に襲われたほどだ。
フォースの覚醒は「あ、これスターウォーズだ」と初心者の私でもすぐに理解させるほどに、スターウォーズの形になっていた。完璧なほどに、見事なまでのスターウォーズがそこに存在した。

シリーズを見ていなくても理解できた。楽しめた。一本の映画として完全なる完成がなされていた。
物語が進んでいくにつれて画面から目が離せなくなり、遂にはEP8が待てない体になっていた。
ファン向けの二次創作でもない、そしてファンの独りよがりでもない完璧なまでの再起動。
我々が見たかった「スターウォーズ」をしっかりと提示してくれていたし、同時に「俺がやりたかったスターウォーズ」も見せてくれた。その「俺的スターウォーズ」も世界観を壊すこともなくスターウォーズの世界へ違和感なく組み込まれていた。

J・J・エイブラムスはスターウォーズを完全なる形で再起動させてしまった。
誰もが避けてきた神話を、この男は進めてしまったのだ。
ファンへのサービスと言う過去へ揺り戻すこともなく、そして独りよがりにもならない、確かなる歩み。
この男は本当に天才なのだとため息が出るほどだ。やってくれ、見事にやってくれた。

シリーズ未体験でもスターウォーズの世界へと引きずりこんでくれる。その魅惑の触手に私は完全に絡みつかれて離れることが出来なかった。
「なんてことだ、今までこんな壮大な神話を見てこなかったなんて、大ばか者だ」と自分の愚かさを嘆く始末。
でも、これでよかったのかもしれない。私はソロやレイアの立場ではなく、レイとフィンの立場で物語を追うことが出来るのだ。

これまでの作品を見てきた元来のファンが何を感じたのかを私は体験できる。何も知らないレイとフィンは私の写し鏡だった。だからこそ、この立場でスターウォーズの世界を体験できた私は様々な意味で幸福だと思える。シリーズ未体験者と同じ目線で物語を追えるキャラを配置し、そして元来ファンには齢を重ねたソロやレイアを配置することで観客のシンクロ率を上昇させる。どの観客でもキャラクターに感情移入できる作りになっている隙のなさ。あまりにも出来すぎているのだ。それほどの完璧さを誇っているがフォースの覚醒である。

フォースの覚醒で私の内にある何かが覚醒した。この神話を見届けようと決意できた。
過去に何があったのか、そして未来に何が起きるのか、フィンとレイと共にこれから私は見ていくのだ。

「フォースの覚醒」とはJ.J.の決断によりシリーズが再び歩み始めたという意味もあるだろう。そして、新たなファンを生みフォースを受け継がせるという意味も含んでいるのだ。

誰もが楽しめる。誰もが心を奪われる。そんな歩みをJ・J・エイブラムスはやってのけた。
この天才は、本当に天才だった。

アカデミー賞はJ・J・エイブラムスに監督賞、BB-8に助演ユニット賞を与えるべきだろう。



クソリプを送ってくる人の実生活が知りたい

f:id:Sanyontama:20151217223515j:plain


クソリプを見ると上のような気持になる@Sanyontamaです。

Twitterという人間動物園では様々なクソリプが飛び交っている。
突然会話に割り込んでくる人間は珍しくない。適当につぶやいた事柄に対しても突っ込みを入れてくる人はいる。

別に会話に割り込んでくるのは構わない。興味がありそうな内容であれば積極的に混ざりこんでくる姿勢は嫌いじゃないし、それもTwitterのだいご味だと思っている。
誤った知識を訂正してくれるのもありがたい。
これぐらいだった大歓迎なのだ。でも全員がまともなリプを飛ばしてくるとは限らない。

クソリプというのが存在する。個人の感想や会話に割り込んできて、意味不明な文章を投げ飛ばしてくる奴らがいるのだ。

クソリプの例を挙げてみる。
「ショベルカーってかっこいいよね」とつぶやいたとする。
「建設業界にショベルカーと呼ばれる機械は存在しません」「油圧ショベルだろ?馬鹿か?」「行政用語ではバックホウな」
とのリプが帰ってくる。これがクソリプだ。

f:id:Sanyontama:20151217223147j:plain


言いたいことはわかる。ショベルカーは存在しないし、工事現場ではユンボやバックホウの名で呼ばれている。リプライの全ては正しいことを言っているのだけど「ショベルカーかっこいい」というつぶやきに宛てるものではない。
見ず知らずの人間がいきなり意味不明な事を言ってくるのだから「なんだお前は?」となるのも仕方がない。何を言っているんだと、怒りよりも疑問の気持ちが大きくなってしまう。

「名称云々の話ではないですよ。大丈夫ですか?」と返答したくなること間違いなしだ。そんなことをしたらなぜか喧嘩に発展するのだから、クソリプ飛ばす奴らは日本語が通用しないのかと思えてしまう。
そもそもクソリプを飛ばしてくる奴は日本語だけを使ってくるとは限りません。Twitterには全世界の人がいて英語も中国語も使われてますよ? はい、これもクソリプ。

クソリプを投げ飛ばしてくる人は論点が違うというのを気づいていないのだろうか。
本題はただの感想だ。ショベルカーかっこいいという個人の感想。そこに「わかるよ」「えーあれのどこがいいんだよ」とリプを送るのなら理解できる。かっこいいという論点に沿っているし、つぶやいた人もそんな反応を望んでいるからだ。正式名称なんかは最初から求めていないのである。
だけど自己の知識を顕示するかのように行政用語を送り付けてくる奴には辟易する。なぜ論点が異なるリプを飛ばせるのか理解できない。

クソリプを貰った人は多いと思われる。
フォロワーが多ければRTされる確率も増えるだろう。そうすると餌を見つけたハイエナみたいに飛びついてくる奴が出てくる。
ちなみにハイエナは腐肉をあさる動物ではなく、集団で狩りをします。ライオンのほうが世間一般でいうハイエナ的行動を行っています。はい、これもクソリプね。

と、意味不明なつぶやきを行う人と気軽に触れ合えるのがTwitterのだいご味だ。
クソリプしてくる人は何が悪いのかを理解していない。さもしてやったりという顔をしているか、大真面目に「それ間違ってます!!」と目を血走らせているのか。
悪気が一切なさそうな点がクソリプをクソリプたらしめている点だろう。

クソリプを飛ばしてくる人はクソリプを飛ばしているという自覚がないのだと考えている。「ショベルカーかっこいい」という文面で、何を思ったのか思考の飛 躍を起こしてしまい「行政用語はバックホウ」に行きついてしまう。本当にそんな人がいるのだからTwitterは地獄だ。
ネットの世界なら顔も名前も知らない不特定多数の人と遭遇する。現実のその人を知らないからこそ、ずかずかと土足で足を踏み入れてわけのわからない事を喚くことも出来てしまうのだ。
自分の目線と相手の目線が同じだと自然と思い込んでしまうからこそ、クソリプが生まれるのかもしれない。現実の姿を知らないからこそ成しえる技なのだろう。

でも現実だと話は変わる。
初対面でも「一目見た」だけで、その人となりは漠然ながらだが読み取れてしまう。初対面だからこそ相手の気分を害さない様にこちらも取り繕うのが自然の流れだろう。
でもクソリプを送ってくる人は初対面だろうがお構いなしにずかずかと相手の心に上がり込んでいるのだろうか。
仮にそんな人がいたら社会生活なんかままならないだろう。現実でクソリプを飛ばしたら、疎外されることは確実だ。

だからこそ気になってしまうのだ。
クソリプを飛ばしてくる人は、実生活でもクソリプを飛ばしまくっているのだろうか。

「佐川が宅急便届けに来たよ」と家族に言われ「は?宅急便はクロネコヤマトの登録商標なんだが?宅配便って言えよ」と突っ込んでいるのだろうか。
街中で見ず知らずの人が会話をしていて「昨日家族と映画観に行ってさー」と聞いたら「お前は家族がいない人の気持ち考えたことあんのか?」と割り込んだりしているのだろうか。

気になって夜も眠れない。
クソリプ送ってくる人って、実生活でもクソリプ飛ばしまくってるのかなと。
中には本当にそんな人もいるだろうが、自分の周りでは見当たらない。クソリプのせいで社会から疎外されてしまって、僕の目に入ってこないだけなのかもしれない。
そんな人がこじらせてしまい、元来持っていたクソリプパワーを悪化させてTwitterとかでクソリプを飛ばしまくっているのかもしれない。

クソリプを飛ばす人の実生活って、本当にどうなっているのだろ。
実生活での評判はいいのに、ネットの世界ではクソリプを飛ばしまくっているとしたら、それはそれで闇という物だ。
やっぱりこの世って地獄ですわ。