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せまひろかん

どこまでも

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『ビースト・オブ・ノー・ネーション』はフィクションと現実の境界を曖昧にさせる


 Netflixが劇場映画に参入する。その嚆矢となったのが「ビース・オブ・ノー・ネーション」だ。
 劇場公開と同時にNetflixで配信されており、日本でも吹き替えと字幕の両方が用意されているなど、その革新的な手法には目を見張る。劇場公開と同時に配信が開始されたことでアメリカの大手映画館チェーンが反発した。業界をかき乱すその姿はまさに黒船だ。

「ビース・オブ・ノー・ネーション」は少年兵を描いた作品だ。こんな重厚社会派作品をオリジナルコンテンツとして配信する姿勢には敬服させられる。娯楽性の高い作品だけがユーザーを獲得する要素ではないのだ。

 ネタバレを含みます。

 無垢な少年たちがサッカーに興じる場面から物語は開始される。主人公のアグーはいつも遊びほうけている。なぜなら、紛争で村の学校が閉鎖されているからだ。だから、彼らは遊ぶことしかできない。しかし、そんな生活も彼にとっては幸せそのものなのだ。元教師の父は難民の救援活動を行い、兄は髪型と筋肉を気にしている。生まれたばかりの妹に目の見えない祖父、全てを優しさで包み込んでくれる母親。
 紛争が無縁に思える、どこにでもいそうな少年と、どこにでもいそうな家族愛が淡々と描かれていく。本当に何も起こらない日常がどれほど大切な物なのかを突き付ける。普通という物はどれだけ恵まれているのか、この懇切丁寧な描き方で問いかけてくるのだ。

 そんな日常は容易く崩壊する。それが紛争という物だ。アグーの住む村は中立地帯なのだが、政府軍が侵攻を開始する。母親と幼い妹だけは無事に村の外へ脱出させたが、父に兄、祖父とアグーが村に残った。そして、遂に政府軍と反政府軍が村で衝突。アグーは目の前で父と祖父、そして兄を殺されてしまう。
 必死に逃げ、たどり着いたジャングルでは反政府軍NDFに遭遇。NDF指揮官はアグーに問う。なぜここにいるのか。お前は誰か、と。アグーは家族が政府軍に殺害されたことを告白し、指揮官は政府軍への怒りを感じないかと再び問う。
 おそらくアグーにはこの瞬間まで政府軍への怒りという物は無かったのだろう。指揮官に煽られることで、徐々に”怒り”を芽生えさせていく。いや、指揮官に植え付けられていくという方が正しいかもしれない。親父殺しの連中と戦いたいと言えと強要され、それを拒否できない姿は人間から殺戮兵器への転落を決定づける名場面だ。

 
 マイティ・ソーやパシフィックリムでおなじみのイドリスエルバ演じる指揮官の存在感は圧倒的だ。兵士の中から武器も持たずに悠然とアグーの前に現れる。その立ち振る舞いは悪魔ではなく、なぜか神々しさを感じる。
 部隊も指揮官への忠誠心が高い。「指揮官は!?」と問われると「最高です!」と間髪入れずに全員が声をそろえて宣言するあたり、ここには人間性のかけらもないことが分かる。それなのに指揮官へ忠誠を誓うのは、彼の圧倒的なカリスマ性が起因している。
 どんな人間をも虜にしてしまう、その静かな佇まい。時にはどこかの国家元首のような演説を行い兵を鼓舞する。ユーモラスな会話で兵の笑顔を誘う。食事を武器を与え、彼らに不自由さを感じさせない。それこそが、彼らを指揮官から離れさせない理由だ。彼らにとってはある種の神に思える存在なのだろう。
 そんな指揮官の手でアグーは凄惨な暴力に身を落としていく。

 反政府軍の中で培われる疑似家族のような関係、同じ少年兵との友情。暴力に介在する日常を連想させる要素が見る物を圧倒させる。これが反政府軍ではなく学校や家族という日常にありふれた組織ならば、彼はどれだけ幸せなのだろうか。そんなことを考えても彼は逃れられない場所に到達してしまった。だからこそ、悲しく、だからこそ助けたいと感じてしまうのだ。

 そしてアグーは初の殺人を犯す。
 橋を修繕しに来た人々を襲い、生き残った一人の大学生を殺せと指揮官はアグーに伝える。命乞いを行う大学生の姿を前に、アグーは手に持ったナタを振り下ろせない。指揮官はアグーを煽る。大学生は生きることを懇願する。煽り、懇願する。
 普通の作品ならばナタを振り下ろすことはせず、代わりの人間が大学生を殺害するという流れが多いはずだ。アグーの甘さに指揮官が激怒する顛末となるだろう。
 しかし、この作品ではそんな「甘さ」は一切存在しない。偽りなき真実の戦場を描くことを目的としている作品だ。たとえ主人公でも少年であっても配慮はしない。本物の戦場では配慮なんてしてくれないのだ。
 だからこそ、アグーが完全なる殺戮兵器へと目覚める過程も怯むことなく描き出す。
 
 アグーはナタを振り下ろす。大学生の頭部に突き刺さる。少年兵仲間がアグーを手伝い、ナタを何度も振り下ろす。何度も、何度も。
 その時画面に血が付着する。古びた表現だ。レンズを意識させるので興ざめという意見もあるが、そんな古風な表現すらもこの作品にとっては、平和に生きる我々への問いかけになっている。
 画面に血が付着する。それにより観客はフィクションを更に意識する。観客は画面の向こうにある快適な部屋でこの作品を見ているだろう。物語はフィクションだが、描いたものは現実に起きている。フィクションだが、フィクションではない。画面に血が付着するのは、観客の顔面に血が付着するのと同意義だ。今もどこかで発生している紛争。そこに投入される少年兵。これは果たしてフィクションなのか。画面に血が付着する演出にはそんな意図が込められているのだ。この現実を直視せよと訴えかけている。

 この作品は妥協をしない。甘さなんてものはどこかに置き去りにされており、とことんどす黒い混沌が描かれている。少年兵が少女を暴行するという場面は目を背けたくなるほどだ。その少年兵の横で大人が女性を強姦している。そんな混沌と怨嗟しか存在しない、普通ならば避けて通るであろう描写も克明に描いている。
 背けるな、背けてはいけない。呪詛のように過酷な描写であふれている。子どもが人を殺すという場面をこれほど明白に、何度も描ける作品はそうそうない。
 
 戦争にあふれる日常。大人が人を殺し、少年も人を殺す。今までは家族や友人と楽しく過ごすことで成り立っていた日常が今や戦争に変貌したのだ。暴力が日常となり、彼はそれが当たり前になっていく。
 我々が朝起きて顔と歯を荒い、トイレに良き朝食をとり学校や会社に行くのと同じように、彼の生活と精神には殺人が追加されたのだ。
 アグーは確かに殺戮兵器となった。しかし完全に人間を捨てたわけでも壊れたわけでもない。神へ何度も自分の過ちを懺悔したり、その神が返答をしてくれないから、どこにいるのかも分からぬ母親へ話しかけている。そこには少年が残っている。母親の愛を求め、それが成しえないという現実にどうすることもできない。彼は助けを求めている。しかし、誰も助けを聞き取ってくれない。そんな彼の叫びは銃弾となり四方八方へばら撒かれる。誰かこの叫びに気づいてくれと訴えているように見えてくる。
 
 この作品で重要なのは最後のセリフだ。NDFは物資が尽きてしまい、UNに投降する。アグーは孤児院にたどり着く。戦争の記憶が頭から離れず、夜ごとにうなされる。そんな状況下でアグーは女性職員に体験したことや未来への希望を尋ねられる。それで楽になれるかもしれない、と職員は語るが、アグーにとってそれは綺麗ごとでしかない。
 恐ろしいことを目にし、僕も恐ろしいことをした。それを話せば僕が悲しくなるし、あなたも悲しくなる。これからの人生で僕はただ幸せになりたいだけだ。 
 
 この作品には一切の妥協や甘さが存在しない。
 一人の少年が兵士となって行く過程はドキュメントと言っても過言ではないほど丁寧に描かれている。幸せだったころがあるからこそ、観客は彼の行く末を見届けたくなるのだ。フィクションでありながら、現実で発生していることを描き出している。フィクションと現実の境界を曖昧にしているのだ。この驚異的な曖昧さは少年兵という現実を再認識させてくる。この真実から目を背けてはいけない。

 平和を享受した人間が知るはずもない真実。それを知りたくなるのが人間だ。しかし、その行為が当事者の救済につながるのか。知ることは彼らにとって安息たりえるのかと、我々に問いかけている。

「ビース・オブ・ノー・ネーション」はNetflix加入者ならば必ず視聴してほしい。いや、しなければならないと強く思う。