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「進撃の巨人 エンド・オブ・ザ・ワールド」、その惨憺たる真実を目の当たりにせよ!

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渦中の実写版「進撃の巨人後編」の公開が遂に始まった。
個人的な意見だが、前編は予想外の健闘を見せてくれたので、後編も楽しませてくれるのだろうと思い込んでいた。
巨人のシークエンスも良くできており、いよいよ実写版における世界の真実が明らかになる、と期待を持っていた。

だが、全ては無駄だった。
前編のエネルギーは確実に失望へと変換され、鑑賞後はひたすらため息がでるだけだ。巨人のシーンが良くできているという擁護の念さえ湧いてこない。

パンフレットには町山氏の解説が掲載されているようだが、それを買う気力はそがれてしまったので内容は分からない。

なぜこうなったのだろうか。前編がそこそこ良く出来ていたせいで、夢を見てしまったのだ。そのせいで、より深い不幸の沼へと落ちることになったのかもしれない。私を駆逐した、悪夢の進撃の巨人後編をレビューする。


以下ネタバレを含みます。

 

前編の希望を打ち砕く


さて、実写版進撃の巨人だが、前編は良くできていると思ったのだ。
映像的な面はかなり良くできており、物語も進撃の巨人らしさがあった。抑圧された壁の世界。そこに存在する真実を突き止めていく。謎解き要素。それが進撃の巨人であり、前篇はその謎を提示して終わり、後半への期待を伺わせる構成となっていた。

しかし、後編はその期待を見事なまでに裏切る。
あらすじも長く、だらだらと会話が継続される。全てを台詞で表さなければならないのか。危機的状況が迫る中で、エレンとクバルがひたすらに言葉を応酬しあう。言葉の応酬は良いのだが、演出はそれを支えるほどの技量に到達しておらず、ただの絶叫討論会にしか見えない。その会話内容も極端で「早く終わらないのか」と思うほどだ。

敵は城塞都市を統治する政府だと判明するのだが、その政府側の人間(クバル)の行動原理は類型的過ぎる故に小物にしか見えない。セリフも陳腐な物であり、まるで小学生が記したような中身のないものだらけだ。撮影も単純に人物の顔を映すだけで、見ていて飽きてしまう。小物な思考で合っても、人物を尊大に見せるだけの技術を感じさせないのだ。
金のかかった学芸会なのかと思えてしまう。

キャラクターの魅力も極端に削がれており、行動原理が見えてこない。流されるままに行動しているようにしか見えないので、感情移入ができないのだ。

登場キャラクターは飛び抜けた思考をするわけでもなければ、膝を叩きたくなるような奇をてらう行動もない。
狂気に満ちた世界のはずなのにすべてが模範的であり、カタルシスへ至る道筋を提示していない。
前編ではラストにエレンが巨人化するという場面で、カタルシスまで至っていたのが、後編にはそれがないのだ。
ひたすら、冷たい空気が漂う始末である。

そして、うすら寒いシーンがある。
謎の真っ白い部屋の中でシキシマが訳知り顔で巨人の謎を唐突に暴露する。巨人は人為的に作られ、人類は巨人との戦争後に壁を築きそこに閉じこもったという、予想の範疇でしかない回答だ。
白い部屋は突如として砂が敷き詰められ、エレンとシキシマの服が真っ白なワイシャツとズボンになるなど、アニメを思わせる演出が盛り込まれている。
しかし、この白い部屋におけるシークエンスは演出がことごとく空回りしており、あまりにも寒い結果を生んでいる。アニメ的な演出を実写で持ち込むと、これほどにも見るに堪えない映像になるのかと実感する始末だ。

この白い部屋では哲学じみた問答を見せるわけでもなく、淡々と巨人の謎を回答していくだけだ。明らかに尺を引き延ばそうという意図があるように見えた。なぜこれほどべらべらと喋るのか?

編集は前編同様に悪いものだ。危機的状況下で唐突に「一方その頃……」と映像が切り替わるおかげで、滾った熱に冷水を浴びさせてくる。なぜこれほどまでにバランスが酷いのだろうか。無くても良いカットを挟み込む意味が見えてこない。

前編に存在した「壁の外へと向かう強烈な熱」は後編において一切感じられない。だらだらと会話が進み、感情移入のできないキャラクターたちが右往左往するだけに終始している。

神の不在


ここで記す神とは宗教的な意味合いではなく「主題(テーマ)」だ。創作物を形作る故で必要不可欠とされるのが主題という存在だ。つまり創作物の根幹をなす存在が神である。

さて、その神が不在なのだ。
「世界の真実」というものが神として君臨しており、観客はそれを拝むために劇場へ足を運んだ。
巨人が人為的に作られたという真相。これは「巨人の謎」であり神に対する回答にはなっていない。

世界の真実。全ては政府の陰謀であるとシキシマにより示される。
後編は政府に対峙する流れになるのかと期待させるが、そんなことはない。
前編で破壊された壁の穴を塞ぐことに終始するのだ。

エンドロール後に政府らしき人物による語りが挿入されたおかげで、世界の真実は謎のままだという事を強調してしまう結果になった。
これのおかげで「世界の真実」という神は存在しないものになってしまい、謎を増やして終わるという最悪の結末を迎える。


しかし、この作品では「世界の真実」=「巨人の謎」とミスリードされてしまったせいで、巨人の謎を解き明かせば世界の真実になると思い込まされているのだ。
その先入観のせいで、壁を塞ぎすべてはハッピーエンドとして終わったかのように思わされている。
世界の真実はまだ明かされていないのだ。エンドロール後に政府の人間と思しき存在が「実験」だとかいうことを語るため、やはり世界の真実は政府にあるのだと実感させられた。謎が謎のままだ。巨人の謎以外は解決しておらず、散々煽った「世界の真実」を示すことはなかった。この作品は一体何を見せたかったのだろうか。

シキシマは内側の壁に全て穴をあけて巨人を流入させ混乱を起こすという戦法を語る。多数の罪なき人の犠牲を伴う戦法だった故に、エレンたちはそれを固辞した。
だが、シキシマの戦法が酷いだけで、彼の考えは何一つ間違っていない様に思えるのだ。エンドロール後に政府らしき人物の語りがあったせいで、尚更そう思える。
エレンは世界の真実が知りたいと叫ぶのに、やることは壁を塞ぐことだけだ。矛盾した行動であり、真実から背いているようにも見えてくる。だからエレンたちは別の方法を模索して政府と戦う道を選ぶべきだったと強く思う。それこそが神に対する回答になるはずなのだ。
奥底にある真実をつかみ取り、観客に提示する必要があると私は思う。


しかし、エレンたちは神への回答を拒否し、神が不在となった。だから、何がしたいのかが見えてこない。
前篇からの首尾は一貫性がないものになってしまい、作品そのものが瓦解してしまった。

監督はこの作品で何をしたかったのか。それが分からぬまま、観客は置いてきぼりにされ、作品は勝手に進み、そして終わる。

神へ真摯に回答するのならば前編で壁を塞ぎ、後編は真実に対峙する構成にするべきだった。
「世界の真実」という神が不在になるのであれば、「如何にして壁を塞ぐのか」という神を提示するべきであった。それで一貫すべきだったのだ。

前後編の意味とは


やはり後編が薄っぺらい物になった理由は、無理やり前後編に分けたせいだろう。
「撮影前に急きょ前後編への分割が決定」したようだ。道理で後編は冗長な議論シーンが多いわけだ。

稼ぎたいがゆえに前後編に分けたのだろうか。真意は不明だが、この「突飛」な決定が全てを破壊してしまった。
前編は98分で後編は87分だ。後編は90分もないというのに、前篇のあらすじは長く回想シーンも多い。まるで制作に行き詰った深夜アニメのようだ。
白い部屋のシーンを筆頭に、明らかな引き延ばしば多く見られた。風景を映す時間も長く、旅行記が頭に浮かぶほどだ。城塞都市観光案内でしょうかね?

ベラベラと無駄な会話も、引き延ばすためだったのだろう。製作陣の涙ぐましい努力が伺える。なぜ引き延ばすことに賛同したのか。「お上」がどう言おうと突っぱねるべきだ。

この製作陣も意図せぬ「お上」の決定のより後編は薄く、味のない作品に変質したのだろう。
脚本は「一本の作品」として完成する予定で執筆していたのだろうが、撮影前の決定により無茶な修正が行われたのだと推測される。
当初は壁を塞いで、謎も解いて終わる形だったのだろうか?
そのあたりの真相は読み取れない。このおかげにより「前編で壁を塞ぎ、後編は謎解き」という構成は叶わなかったのだろう。撮影前だから、唐突すぎて対応できず、入念に前後編を作りこんでいけば公開日に間に合わなくなるからだ。
何もかも惨い。それに「NO」を言えない監督や製作陣は存在する必要があるのだろうか?

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後編がこれほど薄まるのであれば、一本の作品に集結させるべきだ。
これは後編である意味がない。前篇を二時間越えにしておけば、そこに十分収まった内容だからだ。分割した意味が見えない。
それほどまでに内容が薄すぎる。壁を塞ぐだけで終わったのだ。それしか語るところがない。

分割案は突っぱねるべきだった。
だがそれを受け入れてれてしまった製作陣の罪は大きい。
彼らは罪を自覚しているのだろうか?

なぜ観なければならないのか


ここまで記したように、映画としては惨憺たる結果になった。それでも観なければならない理由は明白だ。
「超大作邦画」だからだ。

本作にはかなりの予算が投入されているだろう。前後編に分けたので追加予算も出たという。
どれほどの額が投入されたのかは不明だが東宝も力を入れており、紛うことなき「超大作」として世に送り出されたのは確かだ。宇宙戦艦ヤマトの実写版は20億円を投入しているので、進撃も同等の予算が投入されていることが推察される。

それなのに後編はこのような惨状だ。映画としての体をなしていないほどの、だらけた作品になった。
なぜこれほどまでに酷いものになったのか。日本映画の酷さは予算不足だけが原因ではないということを示してくれた。

映画評論家が関わっていようとも、いつもと変わらぬダメな日本映画に落ち着く。
駄作を垂れ流し続ける日本映画のシステムには誰一人として勝利することが出来ないという真実を突き付けた。

全ての要素が後編で悪手となり、何を感じ取ればいいのかさっぱりと理解ができない作品がこれだ。

この進撃の巨人実写版を見てほしい。
これほどまでに日本映画ダメなのかという現状認識に繋がり、そして何がここまで悲劇を増大させたのかを考察する契機にもなるからだ。
この悪夢から学ぶことはあまりにも多すぎる。

一本で収まるものを二本に引き伸ばしたせいで、神は不在となり、鑑賞中は魂が抜けていくような虚無感に襲われる。

世界は残酷だ。
これほどの超大作を「失敗作」に仕上げてしまう日本映画は残酷すぎる。

最後に


前編で構築された希望と期待の壁を容易く破壊するのが後編だ。
本来は存在してはいけないはずの「進撃の巨人 エンド・オブ・ザ・ワールド」がこの世に生を受けたこと自体が大いなる過ちであり、失意により穿たれた心の穴を埋めることは難しい。

とにかく見てほしい。見ないと評価はできない。批評を読んだだけで「酷いのか」と満足しないでほしい。この悪夢は体感したものにしかわからない。予想を遥かに超えてくるからだ。そして日本映画の超大作が無残な死を遂げる過程を記憶に焼き付けてほしい。

このような悲劇は二度と起こしてはならない。だが、これからも日本映画の悲劇は続いていくのだろう・・・。

進撃の巨人は日本映画の壁を破壊することができなかった。