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新海誠作品が内包する残酷なまでの現実感

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新海誠を敬愛している@Sanyontamaです。

シン・ゴジラに続き、新海監督最新作も発表された2015年12月10日。この日は永遠に忘れることはないだろう。
秒速5センチメートルや言の葉の庭で絶大な支持を受ける新海監督の最新作はこれまた息の根を止めようとするかのような作品になりそうだ。
「君の名は。」は来年8月に公開される。夢に登場する少年と少女を描いた物語になるようだ。

新海作品に出会ったのは07年の秒速5センチメートルだ。Yahoo!の特集ページで予告を見たのが始まりだった。この作品は今でも話題になるほどの伝説的な作品として語り継がれている。
物語は非常に淡々としている。山場的な場面も存在せず、まるで文学を読んでいる感覚に陥るほどの静かさで構成されている。

新海監督は彼女と彼女の猫から一貫して「喪失」を描いている。
どの作品も徹底して喪失を描いている。単純に男女がくっついてしまうラブストーリーへのアンチテーゼと言えるほどに、どの作品もカップルが成立することがないのだ。

新海作品の喪失は2種類に分けられる。
受動的な喪失と能動的な喪失。
ほしのこえと秒速5センチメートルは前者で、雲の向こう、約束の場所に星を追う子供どもと言の葉の庭は後者だ。

前者に共通するのは時間や距離と言った、人間の力ではどうすることもできない存在に対する諦め。それらが重なってしまった結果としての喪失だ。
後者は、自分が積極的に行動に出たにも関わらず、相手を自分の世界にとどめておくことが出来ない事による喪失だ。

最初から徹底して喪失を描き切っている。どうあがいても「失うこと」から逃れられない作風は、見る物を陰鬱な気分へと落とし込むかもしれない。

ハッピーエンドに見えるが、結局は喪失しているというチグハグさを感じる作品もある。そこまでして喪失を内包しなくても良いと思うこともある。だが「喪失」がなければ新海作品ではない。

どんな作品でも、ハッピーエンドに見えても喪失を落とし込む。見る物の心に穴を穿つような喪失感。
新海誠という男は人との繋がりに嫌悪感を抱いているのかと思えるほどに喪失の描きこみは狂気を孕んでいる。

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現実は残酷だ。純愛が成り立つことなんて少ないだろう。運命の相手だと心の底から思えても、何かのきっかけで引き裂かれることもありあえる。
だけど創作物では夢物語である純愛を成就させる作品が多い。創作物だからこそ現実では成しえない事を成功させる。つまり、夢を与えるためにそのような結末にしているのだ。
だが新海監督は、純愛を真っ向から否定している。アニメなのに夢を全く与えない、現実的な複雑さを内包した作品を世に送り続けている。その現実感こそが喪失の正体だ。現実では長い時を経てしまい喪失にすら気づかない。だけどアニメならば短時間で一気に時間を進ませることだって可能だ。だからこそ、喪失感という物がより強烈に印象付けられてしまう。

秒速5センチメートルが伝説的な立ち位置に存在する理由は、現実感があまりにも強すぎるからだろう。時間の経過とともにいつしか大切な人が記憶から薄れていく。そんな現実によくある現象をとことんまでシンプルに、そして現実的に描いている。圧倒的に無駄のない作品として完成されているからこそ、秒速を伝説たらしめているのだと考えている。

でも、喪失で物語が終わっているわけではない。
喪失しても立ち止まらずに、その先を見据えて歩き出す。そんな終わり方を迎える作品も多い。秒速5センチメートルや星を追うこども、言の葉の庭の3作品は喪失を抱えながらも、それでも生きていくしかないとの現実的なメッセージが込められている。
喪失したことで悲しんでいても、現実が好転するわけでも未来が良くなるわけでもない。だから進むしかないという現実さを新海監督は伝えようとしている。

アニメなのに艶めかしい現実感を孕んだ空気こそが新海作品の本質だ。その現実感はアニメで描いては行けないほどの残酷さであり、非現実なのに現実を思い起こさせてしまう。この現実感はアニメのタブーとも言えるべき所業だ。夢と希望を真っ向から否定する新海誠だからこそ成しえる作品作りだ。

だからこそ、最新作「君の名は。」にも喪失を期待したいのだ。
予告の段階では全貌が不明だが、いつものような雰囲気を確かに感じ取れる。今回も互いの距離感や心と言ったものが主題となるだろう。そこに喪失がどのように落とし込まれるのだろうか。期待しすぎて震えが止まらないほどだ。

8月公開の「君の名は。」には期待しかしていない。