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『ゴジラ対ヘドラ』、これは繁栄の傷が生んだ「兄弟」の戦い

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そのサイケデリックで、妙に淡々とした作りはゴジラシリーズでも異質とも言える「ゴジラ対ヘドラ」を劇場のスクリーンで鑑賞した。
久々に鑑賞するとこれがどういうわけか「ゴジラの精神」を真摯に受け継いでいるようにおもえたのだ。

ネタバレを含みます。

ゴジラ。1954年に第一作が公開されて以降ハリウッド版が製作されるなど、60年以上経過した現在でも根強い人気を誇るシリーズだ。そのスター怪獣がゴジラである。
第一作「ゴジラ」においては「反戦・反核」のメッセージが重くのしかかっていた。
原水爆実験により元来の住処を追い出された太古の生物が東京を襲うという設定である。

終戦が1945年であり、ゴジラの公開はそれから9年しか経過していない。戦争の記憶が色濃く残る最中での封切となった。
疎開、原爆から生き延びた、国会での論争、被災者に孤児・・・。戦時を想起させるセリフやシーンが盛り込まれ、戦争の悲惨さを克明に描いていた。
「戦争と核兵器の愚かさ」を観客へと伝える意図があったようだ。
人類の身勝手さにより安住の地を追い出された怪獣ゴジラは行く当てもなく彷徨うしかない。たどり着いた先は陸地であり、東京という場所であった。悲劇の大怪獣なのだ。

ゴジラに対処する方法は原水爆を超える可能性を秘めた兵器であり、開発者の芹沢博士はその兵器が二度と開発されることも使用されることもない様に、資料を焼き、自身の記憶を葬り去らねば強制的に開発を行わされるかもしれない。そう考えた芹沢博士はゴジラと共に海底深くで息絶える。
人間が原水爆実験を行う限り「第二第三」のゴジラが現れるかもしれない。そんなセリフと共に物語は締められる。
戦争の恐怖が重厚に描かれた。それが第一作「ゴジラ」なのだ。

だが、その重苦しい空気は二作目からは消し飛んでしまう。ゴジラと怪獣が戦うというフォーマットが二作目で登場してから、以降はゴジラのみならず怪獣映画のスタンダートとなった。

 
さて、本題である「ゴジラ対ヘドラ」であるが、これは公害をテーマにした作品で1971年に公開された。
冒頭から「水銀コバルトカドミウム、鉛硫酸オキシダン~」という科学の勉強が出来そうな主題歌から始まる。いつものゴジラ作品とは違う異様さを知らしめるのである。
1965年には四大公害として教科書にも掲載される第二水俣病が、70年には光化学スモッグ、ヘドロ公害が確認されるなど、高度成長期の傷が如実に表れ始めていた。

公害と怪獣。一見接点がないように思える両者は宇宙からと思われる生命体が海に堆積していたヘドロ、工場排水などの汚染物質と融合し、公害怪獣ヘドラが誕生する。
ヘドラは成長すると空を飛び、硫酸ミストをまき散らし通過した場所にいた人間は白骨化し、金属はさびてボロボロになる。
1971年当時としてはゴジラ以上の脅威としてヘドラが君臨するのである。
水爆から生まれた大怪獣ゴジラと、公害から生まれたヘドラ。両者ともに、人類が生み出してしまったのだ。生みの親は人類であり、まさに「異母兄弟」とも言うべき存在なのである。

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当時の時勢としては公害が社会問題化していた。ヘドロ公害に四日市コンビナートの煤煙。それらを題材に怪獣映画が作られるとは、製作陣の引き出しはどうなっているのか。
第一作から17年が経過し、戦争は過去の産物として記憶の片隅に追いやれた。日本は高度経済成長期の終盤に差し掛かっており、先進国としての地位を固め始めたのだ。
しかし、その高度成長の裏には公害が存在した。見過ごされがちだったこの問題は、遂に大規模な抗議が巻き起こり社会問題となったのだ。

第一作「ゴジラ」が戦争と核をテーマにし、日本人に過去の記憶を呼び覚まさせ警笛をならしたように、この「ゴジラ対ヘドラ」は第一作の精神を確実に真摯に受け継いでいるように見えてくる。

第一作のゴジラは東京上陸後「東京大空襲における米軍のB29爆撃コース」と同じ経路をたどっている。意図して再現された経路であるが、これも戦争の記憶を呼び覚まさせ、あの惨禍を忘れさせないためなのだろう。
対してヘドラは工業地帯にばかり現れる。まるで忍者のように現れては工場の煤煙やヘドロを吸い込む。車を飲みこむ。
そんなヘドラの前にゴジラが現れる。

怪獣たちが登場するとき、怪獣映画によくある避難勧告のサイレンが鳴るわけでもなく、自衛隊が現れることもない。ヘドラが初めて陸に上がった際に警察が連絡を受けたが「ヘドラは海の生物」と一蹴し無視してしまうのだ。
危機が訪れているのに、誰もまるで見ようとはしていないかのような異質さがあった。
当初、ヘドラは工場地帯ばかりに現れるというのも面白い。
公害問題は実のところ工業地帯の人間にばかり負担を強いているという側面があった。ヘドラはそれを体現した存在として描かれているのだ。工業地帯に現れて、その土地を地獄に変えていく。限られた被害。それこそが公害の本質なのである。
警官がヘドラ上陸の一報を無視したように、公害は憂慮すべき問題だと考えていても大多数の人間には被害が及ばない、つまり関係のない存在なのだ。

大多数の人が忘れていた、直視していなかった公害。それを怪獣という形で描く。
第一作「ゴジラ」における戦争と核のテーマ。そのテーマだけを入れ替えた作品として「ゴジラ対ヘドラ」が完成したように思えるのだ。

第一作は日本人が忘れかけている戦争の記憶を呼び覚まさせ、再び記憶へと焼き付かせる作品だった。

ゴジラ対ヘドラは公害が限られた地域への負担を強いるという現実を描いている。現実で発生している問題を直視させ、目をそむけずに考えさせるという意図が込められているように思える。

ヘドラは成長すると空を飛び始め、硫酸ミストをまき散らして周辺都市に甚大な被害を与える。人を骨にし金属を錆びさせる。
このヘドラの成長こそ、公害を如実に体現している。光化学スモッグが全国に広まっていき、人体や動植物に影響を与えたようにヘドラの成長は現実に迫りくる脅威を反映しているのだ。
ヘドラは遂に富士山麓へと現れ、公害が日本全土へ及ぶことを暗示させるような流れになっている。

ヘドラはゴジラですら容易に倒せない強敵として描かれている。ヘドラを完全に乾燥させることで絶命に至らしめることが可能であり、自衛隊はヘドラ乾燥用の電極板を用意する。二枚の板に高圧電流を流すころでヘドラを乾燥させるのだ。ゴジラが熱線で電極板を強制的に始動させヘドラを乾燥させる。しかし、ヘドラは内部から脱皮するようにして脱出。ゴジラがヘドラを捉え、再び電極板で乾燥させて絶命させている。

まるで公害問題が一筋縄ではいかぬ存在だということを反映しているかのようだ。
ヘドラにより皮膚がただれているのに、あえて取材に応じ「ヘドラの恐ろしさ」を周知させるなど、第一作のような重いメッセージ性を含んだ作品に仕上げっている。

ゴジラがヘドラの体内に手を突っ込み、中身をぶちまける様は人類の身勝手さに対する怒りのように見えてならない。「お前たちは何も学んではいない」と言いたいかのように、ヘドラの中身をぶちまけるのだ。

ラストに唐突として「神奈川沖浪裏」が挿入される。公害がなければこれほど美しい富士と海を拝めるというメッセージが込められていたのか。はたまた現代では絵の中にしか美しき原風景は存在しないという意味とも取れる。
エピローグではもう一匹のヘドラの誕生が示唆されている。第一作のラストにおける「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」というセリフにそのまま重なるのである。
人類が地球環境を汚染し続ける限り第二第三のヘドラが現れるというメッセージを込めた締め方だ。(なお「ゴジラ対ヘドラ2」というプロットが存在した)

人類の繁栄により、見過ごされてきた傷。それが大きな問題となり、社会を反映する怪獣映画で描かれるに至った。
まさに第一作の精神を真摯に受け継いでいる。
ゴジラとヘドラ、両者は出自は違えども人類が生み出してしまった悲劇の大怪獣なのである。



さよたま (@Sanyontama) | Twitter