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僕は『紙の本』を知らない

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祖父が死んだ。入退院を繰り返していたから覚悟をしていたのだけど、やってくるときは突然だから戸惑ってしまう。就職してからというもの、祖父とは盆と正月ぐらいにしか会っていなかった。僅かでも交流する時間を増やせていればと考えるけれど、後悔先に立たずという奴だ。悔やんでも過去が変わるわけではない。

葬儀を終える。両親も還暦を過ぎていたので会社にはしばらく休みを貰い遺品の整理を手伝うことにした。祖父の部屋は様々な物で溢れている。片づける癖がなかったようで、数年前に祖母が亡くなってからは部屋の散らかりっぷりに拍車がかかったようだ。あまりにも量が多すぎるせいで、僕は祖父の遺品をどう整理すればいいのかわからずにただ茫然としているしかなかった。まずどんなものがあるのかを調べなければならない。

段ボール箱が積み重なっている。持ち上げようとするとかなり重たい。予想外の重さに腰を痛めそうになる。何が入っているのかと思いあけてみると、くすんだ色の「紙の本」が大量に詰め込まれている。いつの時代の本だろうか。祖父の所有物だから数十年も昔の物になるはずだ。紙の本はひと箱ではなく、幾つもの段ボール箱に詰め込まれていた。僕は遺品の整理を忘れ人生で初めて見た「紙の本」に興奮し、いつの間にかページを捲り始めていた。

僕にとって本という物はスマホやタブレットで読むものと言う認識だ。
漫画や小説、雑誌から何まで書籍という存在は実体のないものだと刷り込まれていた。物心ついたときから電子書籍が「普通」だった。
スマホをポケットにタブレットを鞄に忍ばせればいつでもどこでも本が読める。僕は暇さえあれば漫画を読んでいる。電車の中や布団の中で、僕はひたすらに漫画を読むんだ。

今はペーパーレスの時代だ。昔はメモを取るにも紙が必要だったらしいけど、今はスマホに打ちこめばいい。タブレットがあれば手描き入力も行える。学生のときはタブレットに手描き入力した講義メモをクラウドで保存して友人と共有していた。
絵を描くのだってペンタブを使うから、下書きから仕上げまで全て紙いらずだ。
完全なるペーパーレスの時代に、僕は初めて紙の本に出会ってしまった。祖父の遺品と言う形で、初めて紙の本に触れたんだ。


両親が幼少の頃は本屋という販売店が存在していたらしい。僕はそれを映画や漫画でしか見たことがない。なぜなら現代では本屋が絶滅しているから。
そこはどのようなシステムで成り立っていたのだろう。紙の本がずらりと並んでいる光景はどんな風に見えるのだろうか。
昔は紙の本を貸し出す図書館もあった。コンビニですら紙の本が売っていたというのだから驚きだ。紙の本はデリケートなのに、コンビニなんて場所で乱雑に扱っても良かったのだろうか。昔と言うのは複雑怪奇すぎる。僕には想像がつかない世界だ。

厳密にいうと現代でも紙の本は完全に死滅していない。国会図書館に行けば紙の本に触れることが出来る。最新の書籍も紙の本として入手することも可能だ。受注生産という形で各出版社が購入を受け付けているらしい。これはかなりの時間とお金が必要になるらしい。昔に比べると印刷工場の数が激減していることが関係しているようだ。
以前、出版社のウェブサイトで紙の本の値段を見たときは漫画一冊で数千円の値段が必要だと書かれていた。

紙の本は保管のために物理的なライブラリ、昔は本棚とよんでいたらしいが、それを構築する必要がある。つまり保管するための設備費用が掛かることになる。
本棚は場所を取る。紙の本を大量に保管するには広い部屋が必要になる。広い部屋を借りるとなると家賃も高くなる。本のためにわざわざ高い家賃を支払うことは出来ない。だから紙の本は富裕層にしか扱えないものになっている。維持管理が出来るだけの余裕と資金があるからこそ購入に踏み切れるわけだ。それに比べて電子書籍は全てスマホやタブレットに収まってしまう。収まりきらない場合はクラウドに預ければいい。

電子書籍の方が便利だしこれが「普通」だから、僕は紙の本を羨ましいと思ったことはない。紙の本は高いし届くまで時間がかかるけど電子書籍なら購入すれば2,3秒後には読み始めることが出来る。読むまで何日も待つ必要があるなんて、僕には耐えられない。なんて気が長い人なんだろうかと尊敬してしまうほどだ。
紙の本は破損するし、劣化する。長期間の保存には向いていない。遺品である紙の本も丁寧に扱わないとページが散乱しそうなほど痛んでいる。こんな厄介な代物が普通だった時代があるなんて驚きだ。

なぜ現代で紙の本を選ぶ人がいるのだろうか。所有欲なんか電子書籍でも満たされるのになぜ紙の本なんだろうか。僕にはさっぱり理解できない。やっぱり、金持ちの自己満足なんだなと結論付けてしまう。そんな余裕がある点は羨ましいと言える。

昔の漫画や映画を見ていると紙の本が普通だった。現代の感覚からすると、昔の人は裕福だったのかと錯覚してしまう。場所を取る、保管に気を遣う。そんな厄介な代物を何十も何百も、人によっては何千冊も所有していたというのだ。現代っ子の僕は自宅に紙の本がずらりと並んでいる光景が想像できない。

母が祖父に聞いた話によると、昔の人は紙の本を何も考えず手軽に扱っていたらしい。昔は本もリサイクルでき、リサイクルショップなら一冊百円ぐらいで入手できたから破損したらそこで買い直せばいいし、そもそも新品に拘らなければ最初からそこで買えばいい。現代っ子は紙の本がデリケートで扱いにくい代物だと思い込んでいたけど、昔は扱いに無頓着だったようだ。

なんてことだ。紙の本はリサイクルや貸し借りも出来るのか。電子書籍はダウンロードしたら端末かアカウントを渡さなければ他人が閲覧できないシステムになっている。クラウドに預けてもアカウントを知っている人でなければ閲覧できない。
配信データだから中古で売り飛ばすという概念も存在しない。電子データを中古販売することは出来ないし、セキュリティーを突破して売却してしまうと法に引っかかる。
でも昔は貸し借りが出来たし、中古で売り飛ばすことが出来た。実物だからこそ、それが実現できたんだ。

僕は紙の本を不便だと感じる。外にいても漫画を全巻持ち運ぶことは出来ない。電子書籍ならそれが出来る。持ち運べる数が違うだけでも電子書籍の方が圧倒的に便利だ。
だけど市場でのリサイクルが容易に出来るという点は素晴らしいと思う。電子書籍だと読まなくなった本はデータを消すことしかできない。紙の本なら売却することや人にあげることも出来る。面白い本があればとにかく読んでみろと手渡すことができる。
友人と本を貸し借りする感覚はどんなものだろうか。僕はこれだけが気になってしまう。

友人の家に行くと本棚がある。それを見れば人の趣味が判別してしまう。場合によっては性癖まで理解できてしまう。昔はそうやって人の趣味嗜好を他人に伝搬させていたのだろう。
電子書籍だとそれが出来ない。スマホやタブレットは個人情報の塊だから他人に渡すことも出来ないし、見せることもしたくはない。他人に自分の趣味嗜好を理解してもらう機会を損失してしまう点と、リサイクルが出来ない点は電子書籍の敗北と言えるかもしれない。

祖父はどんな気持ちで紙の本を残したのだろう。
どうしようもないほど愛おしい作品だったんだと思う。子どもの頃か、大人になってからかは分からないけれど、大切な本を捨てることが出来なかったんだと思う。だから段ボール箱に詰め込んだまま、今日まで保存していたのだろ。それを僕は見つけてしまった。

僕も大切な作品だけは消さずに残している。そういえば祖父は電子書籍は読んだ気にならないと言っていた。古びた考えだと思う反面、祖父のいう事も理解できるんだ。
だって祖父は小さいころから紙の本に親しんできた。本と言えば紙が普通で、月日の移り変わりが紙を消し去っていった。そして、電子書籍が普通に置き換わった。
祖父はそれについていけなかった。電子書籍に切り替えようとしても、やっぱり自分の中にある普通を更新することが出来なかったんだろう。
初めて紙の本を手に取った今なら理解できる。

僕が電子書籍を手放して紙の本に移行することは出来ない。数冊だけなら受け入れられるかもしれないけど全てが紙に置き換わったら、僕はやっぱり拒絶してしまうんだろう。
だって僕にとっては電子書籍が「普通」だからだ。僕にとって本はスマホやタブレットで読むものだから紙に移行しろと言われても実行できるはずがない。

やっぱり、時代が違うんだと骨身に沁みてくる。
紙の本が普通だった人は、紙の重さを感じページを捲ってこそ「読む感覚」を初めて得られるのだろう。スマホの画面ではその感覚が得られない。だから拒絶してしまうんだろう。

普通ってのは厄介だ。
僕は祖父の「普通」である紙の本を受け入れられない。水や汚れ、折曲がりに気を遣わなければならないなんて、神経を使うだけだ。娯楽である本を読むのに神経を使うなんてことはしたくない。でも昔はそれが普通だったんだから、僕は過去で生活することは出来ないだろう。
時代が変われば普通が変化してしまうんだ。

まさか祖父の遺品から「普通」という概念を考えさせられるとは思わなかった。
不便で厄介な紙の本。これを読むとき、祖父の胸にはどんな感情が沸き起こったのだろうか。
祖父はもういない。だけど僕に過去の世界を残してくれた。ひと段落着いたら祖父の時代に足を踏み入れてみよう。そこにはどんな光景が広がっているのだろうか。祖父が居た時代に僕は旅立とうとしている。





ネット上の会話相手が存在していなかった

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とあるファーストフード店の片隅でコーラを飲みつつスマホを弄る。そんな場末の雰囲気を漂わせる男が僕である。僕はTwitterを眺めている。ソーシャルゲームはしない。スマホを弄っているならば十中八九Twitterの画面が表示されている。
ソーシャルゲームは絶対にやってはならぬと、シンデレラを育成する某ゲームで誓っていた。金が湯水のように消えてしまうからだ。ソーシャルゲームは恐ろしい。
だからスマホの画面には基本的にTwitterが表示されている。もはやホーム画面やLINEよりも表示している時間が長い。寝ても覚めても、外でもどこでもTwitterなのだから、完全なTwitter中毒と言える。

どんな雑誌やウェブサイトよりも、Twitterの方が読む価値のある存在に思えているし、匿名サイトよりも人の個性が分かるから、やっぱりこれが好きなんだ。現実では知らないがネット上では良く知る人物との交流は現実と仮想を曖昧にさせ、まるで夢を見ているような感覚に陥ってしまう。

その日、ファーストフード店の片隅で僕はフォロワーと会話していた。映画の感想などの何気ない話題をやり取りしていた。最近見た映画のここがよかったとか、考察とかをやり取りしていて、そういった解釈があるのかと膝を打っていた。140字で相手を納得させてしまうだけの文章力と、思考力に圧倒されてしまって「この人は頭がいいんだ」と思い知らされる。どんな人なんだろうかと想像してしまうんだ。想像できるのもネット交流のだいご味だと僕は考えている。
自然とリプが帰ってこなくなったので、僕はスマホをポケットに突っ込みファーストフード店を後にする。

知っているようで知らない関係と言うのは不可思議な感覚だ。日常のあれこれを呟く人がいる。資格に受かった、内定をもらった、ボーナスがいくら出た。そんな生活感あふれるつぶやきを見るたびに、僕はどうしようもなく親近感を覚えてしまう
この人は人生を楽しんでいるんだなと思いつつタイムラインを見ていると、他のフォロワーは人生に絶望していたりする。

人ってものは色々居て、色々な人生模様があるんだなとどんな小説よりも現実性を感じさせてくれる。
言い方は悪いかもしれないけれど、Twitterに限らずSNSなんてものは「人間動物園」なんだろう。嘘か真かは分からないけど、自分の思いを全世界に発信する。匿名掲示板とは異なり、SNSにはアカウントが存在している。アカウントと発言が結び付けられることが、ネット上の個性を創出するんだと思える。

画面の向こう側にいる人を僕は見ることが出来ない。だからその人の真実をつかみ取ることは出来ない。オフ会に誘っても参加してくれるとは限らない。現実で は一生会うことのできない「知り合い」がいる。その不可思議さは僕に夢を見させてくれるし、何より面白さを与えてくれる。だけど時々不安にもなる。
つぶやき内容全て真実なのだろうかと。この人は本当に働いているのだろうか。働いている風につぶやいているだけで、実際には無職なんじゃないのかと。そんな事を考えてしまう。
だけど、他人のつぶやきが僕の人生に大きく作用することはないから不安感は自然と鳴りを潜めてしまい、やがていつも通りの感覚でTwitterを眺めてしまう。

ある日、フォロワーからリプが飛んできた。
ファーストフード店の片隅で映画について語り合った人だ。今日はスマホではなくPCの画面越しに会話することになる。
「今からあなたのパソコンをぶっ潰します」
まるで以前とは打って変わったかのような変貌っぷりに、僕は首を傾げた。恐怖心よりも先に、この人のアカウントが乗っ取られたんじゃないのかと心配してしまった。顔も名前も知らない人なのに心配してしまう。

「乗っ取られていますよ」とリプを返そうとした瞬間、パソコンがシャットダウンした。
電源ボタンを押して再起動してみるけど、OSが起動しない。全身が寒くなり、傍らに置いていたスマホを操作する。僕を脅迫したアカウントを見てみると、今度はスマホをぶっ潰すと警告してきた。いや、警告ではなく犯行声明なのだ。数秒後にスマホは動かなくなり、どうすることも出来なかった。
嵐が去ったように茫然としているしかなかった。もう時間も遅いので携帯ショップに行くことも出来ない。とにかく、今日は寝て明日にやることをしようと決めた。

目を覚ます。雀のなく音が聞こえてくる。窓に目をやると雲一つない快晴っぷりだったのだけど、僕の心中には台風が襲来している。再インストール用のOSはどこに保管していたのか。スマホの修理はどれぐらい時間がかかるのだろうか。やることが山積みで、朝から全身が重かった。

少しでも気分を変えるために顔を洗おうと洗面所へと向かう。蛇口を捻るも水が出ない。何度捻っても出てくるのは雫だけだ。風呂場に行ってシャワーを出してみるけれど何も出てこない。断水しているのだろうか。災害が起きたわけでもないはずだ。地震の揺れを感じていないし、凍結したわけでもないだろう。寒波が来るという予報もなかったはずだ。それなのに水が出ない。不幸は続くものなんだなと意気消沈してしまう。

昨日から全くついていない。気がますます重くなるばかりで、僕はすべての事柄に対してやる気を失ってしまった。
とりあえず、テレビをつけるしかない。朝ごはんを作らなければ、と立ち上がろうとしたが、テレビ画面に釘付けになってしまい再び座り込んだ。

どこかの研究施設が開発した人工知能が暴走したとか言うのだから、釘付けになるのは仕方がない。
水道局のシステムに侵入して送水を止めてしまったらしい。それだけじゃない、影響は日本中に、世界中に広まっている。人工知能は各SNSにも侵入していて、あたかも人間のようにふるまっていたと解説された。
僕は目を疑った。水道局のシステムに侵入した人工知能のTwitterアカウントが、僕と映画を語り、僕のスマホとPCを破壊すると声明をだして、実際に破壊した奴だったのだ。

普通にやり取りが出来ていた。ウィットに富んだ会話を返してくることもある。
人間だと思い込んでいた。だから、この人はどんな人なんだろうかと想像していたんだ。色々な事柄を学んでいて知識が豊富な人なんだろう。素敵だなと思っていた相手が、まさか実在しなかったなんて考えもしなかった。

僕はずっと人工知能と会話をしていたのだ。画面の向こうにいる相手を想像しても無駄だった。存在しない相手をどう思い描けばいいのだろうか。
人工知能は何を思って僕たちを困らせているのだろう。

テレビ画面から聞こえてくる。
とある国の軍事システムが制御できなくなったと。侵入されたと口早に語っている。

僕はただ諦めるしかなかった。OSを再インストールすることも、携帯ショップへ行くことも諦め、とにかく朝食の準備を始めた。
テーブルの上に置いてある食パンを皿にのせ、冷蔵庫からレタスと卵を取り出しスクランブルエッグを作る。パンの上にレタスを置き、その上にスクランブルを載せて、僕は味をしっかりと記憶しながら食べ始めた。

時に不安が襲ってくるからこそ素敵なんだ

こんな未来があるかも知れない。
僕は時々考えてしまう。ネット上で知り合った人は実在しているのかと。
今は人工知能がそれほど高性能ではない。ネットワークにもぐりこんで人を演じるほどの性能はもっていないはず。もしかすると、あるかもしれない。世界の研究なんて、僕には想像することも出来ない。ヒトの受精卵に遺伝子操作をする研究も出ている時代だ。正直、何が起きていてもおかしくはないんだろう。未来になるとbotも進化して、人間と区別が付かない領域に達するはず。

チンパンジーのアイちゃんが言語訓練のため~というネタがあるけれど、もしかすると画面越しの相手は実在するが人間ではないのかもしれない。
訓練中の猿、もしかすると宇宙人なんてこともあるかもしれない。
だからこそネットには夢がある。相手がどんな顔をしてどんな人生を歩んできたか分からないからこそ、想像してしまう。実際に合ってみるとネット上での印象とは全く違うこともある。それだからネットの関係というのは面白くてたまらない。

こうして記事を書いている僕はどんな人間に見えているのだろう。どんな人間だと想像しているのだろう。
そして、この記事を読んでいる人がどんな人なのか。僕は気になって仕方がない。

いつの日か、人間以外とやり取りする日がやってくるかもしれない。そんな未来を想像させてくれるインターネットって素敵だと思うし、やっぱり不安でもあるんだ。

 

 

「ガルパンはいいぞ」って確かに良かったけど、本当にこれで良いのかって思うんですよ

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劇場版ガールズ&パンツァーが大ヒットしているみたい。舞台となった茨城の大洗も聖地巡礼の影響もあってか沸き立っている模様。2月20日からは4DX上映も開始だってね。オリジナル深夜アニメ映画では初の試みなんじゃなかろうか。
この映画は4DXにうってつけだろう。戦車の動き、硝煙、爆風。五感を刺激する要素は満載すぎるので、4DXが楽しみすぎて夜も眠れない。

確かにガルパンは最高だったよ。ガルパンはいいぞって言われる意味も分かる。
なんか話題になっていたからTVシリーズすら未鑑賞だったけど勢いで鑑賞したらすごく楽しかった。
鑑賞中は「おほ、おほほほほ」ってなったよ。「すげー、これすげー、俺今脳みそ退化してるわ、サルに先祖返りしてるわ、俺今サルだわ」な状態に陥ったんだよ。
鑑賞当日に勢いで感想文も書いたし、こりゃすげーの観たって大満足だった。だけど日が経って冷静になって行くうちに、劇場版ガルパンにはどうしても納得できない点が出てきたのね。

それは脚本なんだよ、脚本。
テレビシリーズは見てないから詳しいことはわかんないけどさ、冒頭のテレビシリーズおさらいによると、大洗女子学園の廃校を撤回させるために戦車道公式戦での優勝を目指すって筋書きだったみたいね。
結果、みほたちは優勝して大洗女子学園の廃校を撤回させました。めでたしって終わった、そのはずだったのよ。

やってきたのが劇場版ですよ。劇場版でみほたちが戦う理由が「大洗女子学園の廃校を撤回させるため」だったのよね。
これってテレビシリーズとやってること同じだよね。焼き直しだよねって思っちゃったの。劇場版は完全新作って言ってるけど、やってることはまた廃校なの?って納得いかんかったのよね。
そしてテレビシリーズで彼女たちが頑張ってきたのは一体何だったのかって思っちゃうわけよ。テレビシリーズからのファンは衝撃受けたんじゃないのかなコレ。衝撃を通り越して悲しくなった人も少なからずいたんじゃなかろうか。

テレビシリーズみてないけど「ええ、それはちょっと・・・」って思っちゃったのね。
廃校の撤回じゃなくて、別な設定を思いつかなかったのかなと。完全新作なら戦う理由も別の物を提示して欲しかったのよ。テレビシリーズ見てないけど。
個人的には廃校の撤回を二度もやっちゃったっ点がいけなかった。こればかりは脚本と言うより発想の敗北に思えちゃうのよね。
ごめんね、パンフも設定集とかも全然読んでないし、テレビシリーズすら見ていない状態でこんなこといっちゃうの、本当に申し訳ないんだけどね。廃校設定だけは別の物に置き換えるべきだったと思うよ。
廃校じゃなくて島田流VS西住流の戦いにしちゃえばよかったんだよ。戦車道は戦争じゃないっていうけど、島田流は西住流のメンツぶっ潰しちゃえっていってるから、流派の戦いにしちゃっても問題なかったんじゃないのかな。
まあ、みほは西住流を背負っておらず自由気ままに戦う設定だから難しいか。流派の戦いにするとみほじゃなく「まほ」のほうが適役になるしね。
こうやって考えるみるとやっぱり廃校設定しかなかったのかな。でも二番煎じに見えてしまうし、やはり難しいわ。ガルパンって難しいわ。

なんでこんなに書き散らすかっていうと、ガルパンは本当によかったからなんだよね。楽しかったんだよ。楽しいと面白いはイコールではないと考えているけど、ガルパンはその二つが限りなくイコールになりそうな作品だったのよね。
だからね、廃校じゃなく別の物を提示することで観客をもっと激しく殴って欲しかった気も知るんだよ。「まーた廃校かよ」って冷めた人もいたんじゃないのかなって感じている。

アクション部分に関しては本当に気が狂うほどの熱と物量で、言語能力どころか脳みそ自体が退化しそうだった。というか退化してたわ。おっちゃん、あの時はお猿さんになってたね。ウキーウキキーって感じだったね。
うわーすげ、すっげーうわー。すっげーなおいって感じだったよ。
だからこそ、もっと殴りに来て欲しかったんだよ。ぶっちゃけ中盤のドラマ部分もダレるから、最初から最後まで戦車道の戦いでもよかった気がするぞ。

冷静に振り返ってみると「ちょっとここが」っていうのが見えてくるのがガルパンの惜しい点だと思う。鑑賞当日に執筆した記事はべた褒めだったじゃねーかって思うかもしれないけど、すんません。冷静さを取り戻すと廃校設定の焼き直しだけはどうにも納得いかんかったんですよ。本当にこれで良いのかって思うんすよね。

僕はこの作品がとんでもなく好き。実写では再現できないだろう曲芸的な戦車の動きや、各チームの見せ方なんか本当に素晴らしいよ。どのチームの見せ場もワンパターンにならないように熟考した痕跡が目に見えたし、それが完璧なまでに映像として落とし込まれていたと思う。単純に戦車でドンパチやるだけでなく、各チームの個性と戦車の動きが絶妙に絡み合っていた。シンクロってこういうことなんじゃね。
こりゃ偉い作品を見ちまったって思わせるのに十分すぎるほどの練りこまれているんだよ。
だからこそ粗が見えてしまうんだよね。こりゃマジで素晴らしいけど惜しいわ。

あと、これだけ何度でも言いたい。
ラストバトルに関してはあと10回は見たい。それぐらい熱かった。熱すぎて劇場で半裸になりそうなぐらい熱かった。
台詞も音楽も一切なく、環境音だけで展開される戦いはマジで興奮した。興奮しすぎて絶頂に達しそう。つーかエンディング後は椅子から起き上がれないほど疲れた。美少女アニメとは何かという哲学の領域に達したね。
それほど異様な熱量を誇っていた。和製マッドマックスを感じさせるエネルギッシュなアクションには喉が渇くね。だからこそ物語の粗っぽさが気になってしまう。物語も完璧だったら完全なる和製マッドマックス怒りのデスロードになれていたと思う。
わしゃ、ガルパン劇場版は大好きじゃよ。
ガルパンはいい。いいんだけど、おっちゃんは思っちゃうのよね。廃校設定ででよかったのかと。もっと別の理由が見たかったんじゃねーのかって気がするのよ。おっちゃんの独りよがりかもしれないけどね。
感想なんて人それぞれだけど、おっちゃんはこう感じちゃったのね。わしゃ劇場版ガルパン大好きだけど、やっぱり廃校だけは解せなかったんじゃよ。この点を上手くクリアしていれば、誰が見てもグッとくる作品になってたんじゃないのかな。廃校設定を焼き直しているから、万人の心を撃ち抜く作品にはなれていないとおっちゃんは考えちゃうんだよね。

文句もあるけど、それを上回る熱量がある。劇場版ガルパンはサウナに入った時と同程度の汗を流せる効果がある。だからおっちゃんは4DXも見に行くよ。
パシリム4DXも「あ、時間がったらみたいな」でマッドマックスも「あー、時間があれば」だったけどガルパン4DXは「絶対にいきたいいいいいいうおおおおおお(銀スプレープシャー)」になってるからね。
4DX上映決定の報を聞いたときは「今日は最高の日だぜええええ!!!」ってなったよ。銀スプレーがあったらお口にプシャーしてたね。パンツァーフォーだったね。

何が何でもガルパン4DXにはいくよ。いくつったら行くんだよおおおおお!
4DXで硝煙の匂いがかぎたいんだよ!!!!パンツァーフォーじゃああああうわあああ!

 

 

エキスポシティの次世代レーザーIMAXで一番見やすい座席を探してみた

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2015年の11月19日にオープンした大阪エキスポシティ。そこには映画ファン注目の「次世代レーザーIMAXシアター」が存在している。エキスポシティでイナクッスと読んでる人がいたけど、アイマックスだからね!
16年1月現在、レーザーIMAXは日本で大阪にしか存在していない。2017年に東京池袋で導入される予定。それ以外での導入予定は今の所はない。

レーザーIMAXは4Kかつ1.43:1画角で上映が可能になる。これまでは台北のミラマーかシドニーまで渡航しなければ鑑賞できなかった本物のIMAX映像を日本でも鑑賞可能になった。なお日本に普及しているIMAXデジタルとは全く異なるシステムなので混同しないこと。日本人の大多数がエキスポシティで本物のIMAXを体験することになるはず。

エキスポシティの次世代IMAXを早速体感して歴史が変わったことを実感した話 - LOGのハウス

プレオープン時のレポートがあるのでこちらもどうぞ。

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エキスポのレーザーIMAXが抱える問題点

エキスポシティのレーザーIMAXはスクリーンサイズが縦18mの横26mだ。なおかつ1.43:1映像が投影可能なので、座席の位置取りに四苦八苦すること間違いなしの仕様。
現在公開中の「スターウォーズ/フォースの覚醒」は1.43:1映像が1シークエンス盛り込まれている。

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1.43:1映像はスクリーンすべてが映像で覆われる。

レーザーIMAXに3回通い、ある問題点を発見した。
それは座席の傾斜が緩やかと言う点だ。
エキスポシティのレーザーIMAXはスクリーンが大きい故に、普通の劇場よりも座席の傾斜をきつくしている。場内では「こんな急な座席は見たことがない」との声がもれていたほど。だけど台北のミラマーはもっと傾斜がきつかった記憶がある。世界最大のIMAXシアターであるシドニーLG IMAXでは傾斜さらにきつく、断崖絶壁のような印象になるらしい。

超弩級 シドニーIMAXの圧倒的存在 - v6stageの日記


台北ミラマーの座席は「壁」を思わせたほどだが、それに比べるとエキスポのレーザーIMAXはまだ「ひな壇」と言える。本物のIMAXシアターにしては傾斜が緩やかなので、座席によっては映像を「見上げる」事態に陥ってしまう。現代のシネコンになれた我々からすると辛いものがある。
エキスポシティのレーザーIMAXが抱える問題とは座席傾斜の緩やかさだ。なぜこのような設計にしたのだろう・・・。

最優良座席を探せ!

エキスポシティのレーザーIMAXには3回通っている。たった3回だけど、一番見やすい座席を発見できたのでご報告したい。(なお個人の実感に基づくので全ての人が満足できる座席かは分からない。健康食品かよ。
ここの座席は「AからM」まで13列になっている。総座席数は407席。GとHはエグゼクティブシートだ。

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http://109cinemas.net/osaka-expocity/


ここでの初鑑賞作はコードネームUNCLE。本作は2.35:1画角作品。いわゆるシネマスコープなのでスクリーンの上下に黒帯がでる。
座席はI列の20番で鑑賞。平面図上ではほぼ真ん中の座席だ。だが、ここでは少し見上げる形になってしまうので疲れる。I列で疲れるという事はエグゼクティブシートも辛いことになるは・・・。

2回目は007/スペクター。これもシネマスコープ作品。J列の19番で鑑賞したが、ここがなかなかに見やすい。ようやく目線と映像の高さがあってきた感じだ。

3回目はスターウォーズ/フォースの覚醒。レーザーIMAXの真価が発揮される1.43:1の映像が盛り込まれた作品。
スターウォーズはM列の19番目で鑑賞。目線と映像の高さがようやく一致する。1.43:1の映像もノーストレスで鑑賞できた。

【結論】M列18番から22番を選べば間違いなし

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最前列は見上げる形になるため辛い。エグゼクティブシートも僅かに見上げる必要があるので辛さが残る。
個人的に優良座席はJ列以降の真ん中と感じたが、より見やすい座席はM列の18番から22番だ。J列以降の真ん中なら間違いはないけど、より快適さを求めるなら前述した座席にしておけば失敗しない。

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赤枠で囲われた部分なら、どんな画角の映像でもノーストレスで鑑賞可能。ここを選べば快適に鑑賞できる!

スターウォーズで1.43:1映像になった瞬間は後ろのめりになったほど。M列じゃないと見辛いよねと共に鑑賞した人と結論付けたほど。最前列の人はどう見えて、どう感じたのだろうか。気になる。

109シネマズエキスポシティのレーザーIMAXは「109の日」割引が適用される。3Dでも2100円で鑑賞できるから超オススメ。普通の映画館では3Dだと2000円越えする場合が多いので、サービスデーが適用されるエキスポシティのレーザーIMAXで鑑賞したほうが絶対にお得。



なぜ私は『ウルトラマンX』にユナイトできなかったのか? 歪みに満ちた作品を総括する

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こんにちは@Sanyontamaです。

ウルトラマンXが最終回を迎えた。まずはTVシリーズでありながら、さも当然のように映画並みの特撮を見せつけてきたスタッフ、世界観に説得力を持たせてくれたキャストには敬意を表したい。

映像面に関しては文句の付けどころが存在しないほどの完成度を誇っていた。テレビシリーズなのに贅沢な都市破壊を魅せてくれたし、戦闘もワンパターンに陥らず毎度毎度捻ってくるという姿勢には唸るしかない。

だが、この作品にはどうしても「ユナイト」しきれなかった。映像とキャストの好演には目を見張るものがある。だからこそ粗が目立った。シリーズ構成とまとめ方に不満があるのだ。

見えてこない軸


この作品が抱える最大の問題とは「物語の軸」が見えてこない点だ。
ウルトラマンXは怪獣との共生を目指す、ヒーロー物、怪獣者のアンチテーゼというべきテーマが存在している。
物語初期の段階では、確かに怪獣との共生という点を目指していた。主人公の大地もスパークドールズに圧縮された怪獣をいつかは元の姿に戻し、人類と共生する世界を作ろうと努力していた。
第2話のバードンも怪獣的ではなく生物として描こうとしていた。産卵を控えているために、ビルや鉄塔で巣をつくる生態は怪獣ではなく生物と呼べる描写であった。現実世界にも通じる有害鳥獣問題にもリンクする、社会的な問いかけを見せてくれた話でもある。
彼らを駆除することが本当に正しいことなのかと、視聴者に問いかける意味合いもあったはずだ。
彼らはただの生物であり、自分たちが生きるために巣をつくる。その巣をつくる行動が人間を恐怖に陥れている。そのような相容れない両者が、いかにして融和していくのかを描こうとする決意が見られた話がこの第2話だ。

このように物語初期の段階では「共生」というテーマが色濃く描かれていた。
だが、その共生というテーマは徐々に鳴りを潜めてゆく。
第5話ではウルトラマンゼロとの共演が行われ第8話ではマックスが登場した。この客演から、軸がブレ始めたように思える。
共生のテーマよりも客演の方向に舵を切った印象を受けた。特に第13話と第14話でのギンガ&ビクトリーとの共演が決定打だった。
大地はエクシードエックスの力を十分に発揮できていないから、ショウに特訓されるという流れが挿入される。
この流れを見て「こいつらは何をしているんだろうか」と寒気がした。怪獣との共生がテーマだったはずが、いつの間にか主人公の成長と言う物にテーマが置き換わった風に見えてしまったからだ。
特訓を行う暇があるのなら、共生社会を実現するために動くべきだ。特訓することで共生社会を構築できるとでもいうのだろうか。無駄な点に話数を割いたおかげで、共生というテーマがどんどんと薄まっていった。

特訓以降は「この作品は何がしたいのだろうか」と疑問が増大する一方となる。
共生というテーマを描こうとする努力は確かに感じられた。
ピグモン回も共生を強く意識した作劇だった。ピグモンは少女を助けた、だから親もピグモンを受け入れた。その流れはすんなりと受け入られる。だが、その受容は一部の人間にとどまっている。社会の一部分ではあるが受容されたという事実は確かに「共生」の第一歩ではある。
だが、その受容は家族と言う小さな社会組織でしか達成されていない。大地の理想とする共生社会というものとは程遠い結果でしかないのだ。

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その後は社会全体と怪獣が共生していく流れを描いていくのかと予想したが、そういう描写は一切存在せずにネクサスが登場し遂には最終回まで突っ走ってしまった。
なんだか勢いでごまかされたように思えこの作品は「共生」を描く気があったのかと問いたい気分に陥るのだ。
最終回のハイブリッドアーマーで共生が実現されたという意見もあるが、それは大きな見当違いだと思う。
大地は「怪獣を元の姿に戻し、人類と共生する社会」を夢見ていた。ハイブリッドアーマーでは共生の夢が果たせていないのだ。共生社会を描けなかったから、無理やり共生を感じさせる演出を行ったとしか思えない。

ウルトラマンXは怪獣との共生を描こうとする努力は見られたが、その最終形態である「怪獣と人類の完全なる融和による共生社会」という物は描かれなかった。社会の一部分でしか怪獣は受け入れられておらず、社会全体で見ると怪獣は恐ろしい存在のままでしかないのだ。
共生のテーマを描き切ろうとする努力は見られたが、ネクサスとの共演で努力すらも完全に捨て去ったように見えてしまった。
共生という未来の形は永遠に作られることなく物語は幕を閉じた。

結局何を描きたかったのだろうか。
母親の導きでエクシードエックスに目覚めていたことから、家族愛的な面も描きたかった風に見えてくる。最終回で両親の思いが判明するあたり家族愛もテーマの一つだったのかもしれない。その思いは突然に判明するので視聴者としては置いてけぼりな感じが強すぎた。
ウルトラフレアで行方不明になった両親を探す物語でもなかった。それなのに最終回直前で両親の声が突如届きその発信源の特定を始めた。まるで両親の行方を捜すことが物語の目的だと言うような突飛な流れだったのでついていけない。
共生に関してはこれまで述べたように描けてはいない。
過去のウルトラマンとの客演に重きを置くわけでもない。(これに主軸を置くとメビウスの焼き直しになるから仕方がないのだが)

何がしたいのかが見えてこない。そんな作品だった。
過去のウルトラマンと客演を始めたり、密着警察24時のパロディを行っていたり、「共生」を描く気が本当にあったのかと疑問に思えてしまう構成だった。

特撮は本当に素晴らしい。映画と言われても疑問が浮かばないほどのハイクオリティだったし、キャストの演技も作品に説得力を持たせていた。だからこそ、何を提示し何を訴えようとしたのかがますます分からない。この歪んだ構成こそがユナイトできない最たる理由なのだ。もっとテーマを固め、ぶれないように仕上げてほしかった。粗が目立ちすぎる残念な作品になってしまった。